静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年09月25日 | 説教要約

「束の間の幸いと永遠の幸い」 詩篇49篇1~20節

 社会に生きていく中で、「知らなかった」では済まされないことがあります。社会のルールなどがそれでありましょう。また、人として生きていく中で、「知らなかった」では済まされないことがあります。そのことをここでこの詩人は叫んでいます。彼は、「もろもろの民よ、すべての世に住む者よ」、「聞け、耳を傾けよ」と全世界の人が次のことを知るようにと語りました。その内容は何でしょうか。

Ⅰ 束の間の幸い・・・この世のものに頼る者

 第一にその内容は、富を頼りにし、宝の多いことを誇ることは、この世での一時的な幸いでしかないということです。どんなに蓄えた財でも、肉体の死の恐れからは逃れられず、永遠の魂の滅び(永遠の死)に対しても、何の解決も得られません。富を神とする彼らは絶えて、光を見ず永遠の滅びに向かいます。どんなに宝を積んでも、肉体の死そして永遠の滅びからは自らを引き戻すことはできません。

Ⅱ 永遠の幸い・・・神を信じ頼る者

 第二の内容は、神を信じ神の救いを受けるとき、永遠の幸いを得るということです。人生のゴールは肉体の死でも墓でもありません。人間の存在は、この世だけの束の間の歩みではなく、永遠につながる歩みとして考えなければならないのです。永遠を思うのは人間だけに与えられた神の恵みです。人生のゴールは、永遠の滅びか、永遠の救いかであります。神を信じ頼る者は、神がその者の魂・霊をあがない永遠の栄光の体を与え、永遠の神の国へ入れてくださるのであります。この世の束の間の幸いではなく、永遠の幸いをいただけるのであります。

 束の間の幸いと永遠の幸いのどちらをお持ちでしょうか? 一時的な世の物に心を奪われずに、神により永遠の幸いを得させていただきましょう。

2011/9/25 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2011年09月25日 | 天のマナ

 「弱気になる時」 

 

 旧約聖書にエリヤという神の器がでてきます。彼は、死人をよみがえらせたり、油の壷を満たす奇跡を行ったり、カルメル山では、偶像に仕える預言者たちと対決して、真の神による圧倒的な勝利を納めた人物です。しかし、その直後、王妃イゼベルから命を狙われて、あの勇敢な姿はどこにいったかというような弱気になり逃げ回るのでした。そして、神に対して「主よ。もう十分です。私のいのちをとってください」と訴えます。あのエリヤがとさえ思います。人間とはなんと弱い者でしょう。しかし、主なる神は、彼を見捨ててしまったのではなく、弱いそのままの彼を受け止め、共に歩み彼を包み、食物などの必要を満たし、何よりも必要な彼の内側に、新しいいのちと力とを豊かに注ぎ、再び立ち上がらせるのでした。

 主なる神は、そんな人間をそのままで、受け止めてくださるのです。このお方に包まれて、何度でもやり直して、歩んでいきましょう。

 

2011/9/25

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講壇の花

2011年09月25日 | 生花
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天のマナ

2011年09月18日 | 天のマナ

 「神を愛することは能動的(自ら他へ働きかけるさま)」

 

「子供と大人の違いは?」との質問に、このように応えている人がいました。それは「子供は受けるだけだが、大人になると与えることをする」というものでした。子供は親の愛情を受けて育ちます。そして、大人になっていくと親から愛を受ける(受動的)だけではなく、親の愛に応え、親を愛することをしていきます。

 

先日の箱根の夏季聖会である牧師が、メッセージの中で「神を愛することは能動的である」と語られていました。私たちは、神によって造られ生かされ救いを受け、神の愛を十分に受けています。私たちの信仰は受けるままの子供でしょうか?大人の信仰になっているでしょうか?愛や恵みは受けるけど、仕えること従うことをしない子供の信仰ではなく、能動的な大人の信仰であらしていただきたいのです。

 

昨日も雨の中、礼拝の準備の奉仕を誰が見ていなくても、黙々と忠実になされている姉妹達を見て、神を愛することを能動的になされている大人の信仰をみさせていただきました。自分のできる奉仕、祈りをしていきましょう。

 

2011/9/18

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主日礼拝説教要約

2011年09月18日 | 説教要約

「主イエスに従う幸い」 マタイによる福音書10章21~28節

 父なる神の働きによってペテロが、「主イエスが生ける神の子キリストである」と告白したことを機に、主イエスはエルサレムに顔を向けたのでありました。

Ⅰ 主イエスの歩む道

 主イエスは、エルサレムで起こること、自らが十字架につけられ殺されること、三日目に復活されることを弟子達に語りました。それは、救い主イエスが、この世に来れられた使命(人間の救い)を、十字架と復活によって果たすためであります。人間の最大の問題は、「罪と死」であります。主イエスの十字架は、人間の罪を負い、人間が受けなければいけない神の裁きを人間の身代わりに受けることにより人間の罪に対する解決をなし、次に主イエスが復活されることによって死に対する勝利をなすからであります。しかし、ペテロはこの永遠の救いを理解できずに、主イエスをいさめた(強くしかる)のでありました。彼の間違ったこの世的なメシヤ観と人情的なものがそうさせたのでありましょう。けれども主イエスの道は、ペテロの思う道ではなく、十字架と復活への道でした。

Ⅱ 主イエスに従う者たちの歩み道

 そのペテロに対して主イエスは、「引き下がれ」と叱責したのでした。主イエスに従う弟子であるペテロの立ち位置は、主イエスの前ではなく、後ろであるのです。さらに主イエスは続けて言われました。主イエスに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って従うようにとのことです。「自分を捨てる」とは、きよめられた主体性でということです。我力(自らの考え、力)で従うのではありません。「十字架を負う」とは、自分に与えられている使命に生きることです。それこそ主イエスに従う者の歩む道です。

 主イエスのあとに、主イエスの背を見て従う者であらせていただきましょう。

2011/9/18 説教者 杉本守

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講壇の花

2011年09月18日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年09月11日 | 説教要約

「神がおられる時」 詩篇48篇1~14節

 

 シオンの山、それはエルサレムの街の中でも、都が建てられている小高い丘であり、神の臨在の場であります。現在では、それは神の臨在の場である教会、主イエスを信じる者が集められている場と私たちは霊的に受け止めています。

 

Ⅰ 動かされない神の都

 諸国の王達は、このシオンの山に侵入する試みをいたしました(4~7)。しかし、彼らは退けられ、おじ窓って逃げたのでありました。当時、タルシシの船団は世界一の強固さを誇っていたともいわれていますが、彼らの東風によって海の藻屑となりました(8)。なぜ、シオンの山は難攻不落だったのでしょうか。エルサレムの周囲は深い谷で囲まれた天然の要害という地理的な条件をあげる者もいますが、何より、主なる神が臨在する所であったからでした(3)。神の臨在があったからこそ、シオンの山は守られ動かされなかったのです。

 

Ⅱ 神の臨在による不動 

 神の民の歴史をみますと、バビロンによって、ローマによってシオンの山は侵入され敗れ滅ぼされたことをみるのです。なぜ、敗れたのでしょうか。それは神の民が神を信じる信仰から離れ、神の臨在を失ったからでありました。信仰のない所に神は臨在されないのです。神の臨在があるか、ないかが重要なのです。

 

 私たちの教会は神の臨在されている場となっているでしょうか。「主イエスを生ける神の子キリスト」と信じ告白し続ける時、主は教会を建て上げて、どんなに世界は動こうとも不動のものとしてくださるのです。主が臨在してくださる相応しい器とさらにされましょう。

 

2011/9/11 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2011年09月11日 | 天のマナ

 「天国の光景」  「その木の葉は諸国民をいやす」(ヨハネ黙示録22:2)

 

 ヨハネの黙示録22章には、天の御国の光景が記されています。主の御座から水晶のよう

に光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木の実が実っています。そしてその

木の葉は諸国の民を癒すのであります。神が民と共に住み、神はその民の目から涙をすっ

かり拭い取ります。御国には、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない所なのです。

 

 二年前の春キャンプで、盲人の牧師先生が次のように語って下さいました。「わたしには

天の御国に入った時に大きな楽しみがある。それは、御国の木の葉で、主イエスがわたし

の目を開いてくださり、主イエスを見させていただくことである。それが楽しみで仕方がない

。」というものでした。気休めではなく、御言葉に土台した確信に満ちた告白でした。

 

 わたしたちも、もっともっと身近に現実に天の御国を先取りさせていただきたいのです。

 

2011・9・11

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講壇の花

2011年09月11日 | 生花
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天のマナ

2011年09月04日 | 天のマナ

 「主イエスにつながっている」 「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)

 

 秋になっていきますこの季節、秋には多くの実がみのります。その中で聖書によく出てくるのが、ぶど

うです。主イエスと私たちの関係を、ぶどうの木とその枝として、ヨハネによる福音書には記されていま

す。木と枝は命の関係にありつながれています。つながっているならば木から枝へ、主イエスから私た

ちへ命が流れ込み、多くの実を結ばせます。しかし、もし枝が木とつながっていなければ、実を結ばな

いだけではなく枯れてしまい、火に投げ入れられてしまいます。「わたしから離れては、あなたがたは何

一つできないからである」と主イエスは言われました。本当にそうだと実感しています。以前は、神から

離れても自分で何かできる者と大いなる勘違いをし、枯れて迷子になり滅びに向かっているものも知ら

ずにいたのでした。今では主イエスのもとにあり、つながっていることのできる幸いを感謝しています。

豊かに実らせるために、深いつながりにありたいです。そのためには、主を賛美し、み言葉を聞き蓄え、

主に従う者でありたいのです。

 

2011・9・4

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