静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教

2008年07月27日 | 説教要約
「神の国の訪れ」 使徒行伝8章1~13節

 ステパノの殉教が、教会に大きな転機をもたらしました。エルサレムの教会に対して大迫害がなされたのです。この箇所を通して主の御言をいただきましょう。

Ⅰ 神を求めていた者
 パリサイ派に属し、地位もあり博学でもあったサウロは、ステパノの殺害に賛成し、なおも、キリスト者や教会を異端視し、彼らを迫害することが神の御心であると信じて、それを行っていました。彼は熱心でありましたが、誤った方向での熱心であり、神が送られた救い主(イエス)と救い(十字架と復活)に関することを真に理解できず、神の御旨とは反対のことをしていたのです。
 教会は迫害によって散らされましたが、散らされた地で、福音を宣べ伝え、神はいつまでも試練を試練として終わらせず、迫害を逆手にとり、宣教の拡大の機会となさいました。
 誤った方向に熱心な求めをもっていたサウロに対しても、神は憐れみをかけ、彼に神の業をなされます。


Ⅱ 神に捉えられた者
 神の真の御心を知る前から、神はサウロに働いていました。先行的恩寵であります。それは、ステパノの殉教を通してであり、迫害の中にありつつも、輝いているキリスト者を通してでした。ステパノの最後の祈りとあの栄光に輝いて眠りについた彼の姿は、サウロの脳裏に焼きついたことでしょう。「そんなはずがない」と否定しようとして迫害を進めるサウロに、復活の主イエスがダマスコで現われたのです。サウロは、自分が迫害しているのは、救い主イエスであり、自分は全く逆のことをしていたことに気がつき、悔い改め、主イエスを救い主と信じるのです。
 そしてサウロは、主イエスこと救い主であることを宣教します。まさしく、神は彼を捉えたのでした。神の救いにより、彼の内に神の国が訪れたのです。

 神は今も救いの業をなし、信じる者の内に神の国を訪れさせてくださるのです。
神は、試練をも逆手にとり、御業をなす方です。

2008/7/27 説教者 杉本守
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天のマナ

2008年07月27日 | 天のマナ
「夏季聖会の恵み」 

 「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物を売りはらい、そしてその畑を買うのである。」(マタイ13章44節)

 私は、高校1年の15歳の時に、この御言にある絶大な宝(福音による救いと神の子とされたこと)を見出し「収穫は多いが働き人が少ない」との御言をいただき献身をし、牧師に召されました。牧師になって今年で
 
 20年目を迎えますが、御言の通りに、多くの実を豊かに刈り込んだかというと、多くの豊かな実をとはいえません。いつの間にか、「神様に騙されたのではないか」という思いさえでてきました。そして、この絶大な宝を掘ることを休み、今までの掘り出した絶大な宝の上の部分を磨くだけになっていました。
 
 しかし、先週の夏季聖会でもう一度、この宝の絶大さを再発見させていただきました。私達が、主イエスを信じて神の子とされたことは、どんなに素晴らしいことなのか、そして神の子として歩ませていただき、神の子に相応しい者として成長させていただいている背景には、どんなに大きな主の業があるのかを知りました。御子の十字架、御霊のうめきによるとりなし、父なる神の摂理です。今では、「この宝をもっと知りたい、もっと体験したい」と御言を掘り、そして、私に与えられたこの絶大な宝を伝えていきたいのです。

2008/7/28
 
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2階の花

2008年07月27日 | 生花

掲載者:岩崎

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主日礼拝説教要約

2008年07月20日 | 説教要約
「天におられる神を見つめる」 使徒行伝7章54~60節

 エルサレム教会に迫害が起こりました。教会の執事ステパノの説教と殉教の記事から、共に神の言をいただきましょう。

Ⅰ 天におられる神のメッセージ
 当時のユダヤ人、特にパリサイ人、サドカイ人、祭司長達は、神殿至上主義、約束の地カナン(パレスチナ)至上主義を持っていました。神殿や約束の地を大切にするならわかりますが、それらを強調し過ぎました。つまり、神は神殿でのみ御心を示し、パレスチナでのみ働かれる。
 しかし、ステパノは説教の中で、イスラエルの歴史(アブラハム、ヨセフ、モーセ)を通して、「メソポタミヤ、エジプト、シナイの荒野でも神は御心を示し、働かれた」と語りました。つまり、「神は神殿やパレスチナの地に閉ざされてしまうか方ではない。最初の神殿を造ったソロモン王でさえもそういっている」と言いったのです。
 また、律法についても、「破っているのは、ステパノではなく、訴えている者達である」と主張しました。これも歴史を通して、「訴える者達の先祖は、十戒をいただいたその時から、すでに偶像礼拝をし、バビロン捕囚に至るまで、律法を破り、神に立ち返るように立てられた預言者をも殺しました。さらに、訴える者よ、なんとあなたがたは、救い主までも十字架につけた」と付け加えました。

Ⅱ 天におられる神を見上げて
 それを聴いた訴える者たちは、ステパノの対して激怒したのです。ステパノはそん中で、天におられる父なる神と主イエスを見上げ、見つめ、平安でありました。
訴えた者達は、ステパノに石を投げ、殉教に至らしめました。石を投げられている間、ステパノはその者達をゆるし、神にもその人達をゆるしてくださるように、とりなしを祈ったのです。主イエスの十字架上の言葉をおぼえるのです。

 私達は、世界中どこにでもおられ、御旨と御業をあらわしてくださる神を見上げて、どんな状況の中でも、主にある平安をもって、ステパノのように輝いていきたいのです。

2008/7/20 説教者 杉本守
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天のマナ

2008年07月20日 | 天のマナ
 「御言と伝道」
 
 ある牧師の説教の中に、「福音を語らないならば、それは先に救われた私達の責任であり、語ったならば聴いた者の責任である」という内容がありました。福音を伝える方法は様々で、直接的・間接的な言葉、しぐさ、行動、また品性(人格)からあらわされる慈愛などでしょう。ある人は、それらを音楽、絵、詩、スポーツ、麗しい笑顔を通してあらわすでしょう。

 先週の日曜日の夕方、久しぶりに路傍伝道に行ってきました。これも福音を伝える一つの方法です。路傍伝道に行く前、会堂の講壇に跪き、「主を求めている一人の人と出会わしてください」と祈りました。4人で青葉公園と呉服町の人が最も往来する場所で、賛美とショートメッセージと教会案内の配布を1時間半近くいたしました。その中で、親子連れが二組、青年が一人、他宗教の人が2人と話しました。また、多くの人に教会案内を渡しました。

 「主を求めている人はどの人だったのでしょうか?」。今後が楽しみで仕方ありません。

 その後に、3人で徹夜聖書朗読会をいたしました。夜9時~朝8時まで11時間、マタイ~ヨハネによる福音書までを一章ずつ輪読しました。一人ではなかなか進まない聖書朗読も、三人でじっくり、そして長く読むことができ、大変恵まれました。次回は、使徒行伝~ヨハネ黙示録です。

2008/7/20
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講壇の花

2008年07月20日 | 生花

掲載者:岩崎

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主日礼拝説教

2008年07月13日 | 説教要約
「御言と祈りに専心する」 使徒行伝6章1~7節

 エルサレム教会は、主の祝福の内にますます前進していきました。そのエルサレム教会にも課題が起こってきました。この所より、主の御業をみていきましょう。

Ⅰ エルサレム教会の課題
 多くの者が主イエスを信じ、教会に加わってきました。その中には、ヘブル語を使うユダヤ人とギリシャ語を使うユダヤ人がいました。人数の増加、言葉の違いなどによって、コミニュケーションがスムーズにいかず、日々の配給のことで偏りが生じ、不満がでてきたのでした。さらに、大きな問題は、使徒がその課題に対処するに追われ、本来の御言と祈りの御用がおろそかになってきたのでした。
 そこでエルサレム教会は、主から知恵をいただき、教会の組織化をするのです。
7人の執事を選び、教会の運営などを任せ、使徒達は御言とお祈りに専念したのでした。

Ⅱ 教会の組織化による前進
 このような教会の中に起こった課題や問題でしたが、主はこれらのことを教会の前進の機会にされたのです。また、信徒の方々が用いられ、彼らに与えられている賜物が発揮されたのでした。
 一人一人にはそれぞれ神の賜物が与えられています。生まれながらに与えられている資質の賜物(ロマ12:6~8)、御霊に満たされる時、御霊のあらわれとしての賜物(Ⅰコリント12章)、職務の賜物(エペソ4:11)などです。
 
 私達に与えられている賜物を、自らのために用いるのではなく、教会形成に用いるときに、神の御業としての祝福が広がっていくのであります。

2008/7/13 説教者 杉本守
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天のマナ

2008年07月13日 | 天のマナ
「一番の喜び」 

 ソロモン王は、「あなたに何を与えようか。求めなさい」と神に問われた時に、自分の力では、神から与えられた王としての使命を果たすことができないので、果たすことができるように、「知恵をください」と応えました。主はソロモン王を大いに喜ばれ、「豊かな知恵」と共に富と誉れをも与えました。愛する兄弟姉妹ならば何を求めるでしょうか?一人一人それぞれの求めがあって良いのでしょう。

 「牧師である私の一番の喜びは何であろうか、そして一番の悲しみは何であろうか」と自問してみました。
 名誉や学識、財や家などの富を得ることにはあまり興味がありません。やはり一番の喜びは、魂が救われていくこと、洗礼を受け教会に加わり、生き生きと信仰生活を歩む方々の姿を見ることです。何よりもこのことが願いであり、喜びであります。逆に一番の悲しみは、救いを受けて共に教会生活を歩んでいた者が、教会を離れていくことです。もっともっと、多くの人を主が、この教会に委ねてくださるように、また、すでに委ねられている愛する兄弟姉妹をお導きできるように、主に与えられた使命を全うできるように、「知恵と愛をください」と祈る次第であります。

2008/7/13
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講壇の花

2008年07月13日 | 生花

掲載者:岩崎

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主日礼拝説教要約

2008年07月06日 | 説教要約
「神から出たもの」 使徒行伝5章33~42節

 使徒達は宣教したことによって、迫害を受け、また留置所に入れられてしまいました。この箇所より、主の言葉をいただきましょう。

Ⅰ 語り続けなさい
 留置所の中にいた使徒達に、神はみ使いを遣わして彼らを解放し、「宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」と力づけます。彼らは宮で語り続けました。そうした彼らを大祭司達は捕らえ、議会に立たせました。「イエスの名で語っていけない」と言った大祭司達に、使徒達は、「人間に従うよりは神に従うべきである」と応え、福音を宣べ伝えることの継続を主張しました。

Ⅱ 主イエスの名のゆえに
 議会は、弟子達を殺そうとしましたが、議員の一人であるガマリエルが、一つの提案をいたしました。それは、「この一連の出来事は、神から出たものなのか、人から出たものなのかをよく吟味して判断するべきである」ということでした。人からなら、一時的で消滅するであろう。しかし、神から出たものならば、この出来事に反対すれば、神に反することになるからです。
 議会は、彼の提案を受け入れ、使徒達を鞭打ち、脅した上、解放いたしました。
使徒達は、イエスの名のゆえに迫害されたことを喜び、さらにこの福音を宣べ伝えていきました。

 どんな迫害の中にあっても、神から出たものはしぼむどころか、いよいよ光り輝くのです。この福音は神から出たもので、人々を救い続けています。

2008/7/6 説教者 杉本守
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