静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日説教要約

2013年02月24日 | 説教要約

「神に叫ぶ」 詩篇69篇20~36節

「神はシオンを救い、ユダの町々を建て直されるからである。そのしもべらはそこに住んでこれを所有し、そのしもべらの子孫はこれを継ぎ、み名を愛する者はその中に住むであろう。」 (詩篇69篇35、36節)

 この詩篇は、敬虔な一信仰者が敬虔であるがゆえに迫害の経験を歌ったのでありますが、主イエスの十字架により成就されたメシヤ預言であるとも言われています。

Ⅰ 神に仕える信仰の歩み(1~29)

 信仰生活には、順調な下り坂もあれば、忍耐をもってのぼる上り坂もあります。さらには、トンネルのように前進を実感しない時もあります。詩人は、敬虔な信仰のゆえに迫害を受け、肉親までもが彼を離れていきました。まさにトンネルのようであります。

Ⅱ 完成者なるイエスを見上げて(30~36、ヘブル12:1~)

 しかし、この詩人は、神への叫びの中で神の御心を知ります。神がシオンを救い、ユダの町を建て直し、しもべらを住まわせ、子々孫々がこれを継ぐということでした。トンネルの中でみさせられたものでした。

 私たちもトンネルの中を歩むようなことがありすが、創始者であり、完成者なるイエスがいてくださいます。トンネルはすでにイエスが通りぶち抜いてくださっているものなのです。

2013/2/24 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年02月24日 | 教会案内

 「ここに愛がある」 (第一ヨハネ4:10)

 「恋とは?愛とは?」と大学生に問うた時がありました。ある大学生は、「あんまり考えたことがありません」と応えました。

 「恋」とは自己中心的な要素が強いものです。「自分の思い通りに、自分に益になるように、自分の願うように」と相手に期待します。しかし、「愛」は自己中心ではありません。相手が本当の意味で生き活きするように、自らをある時には制限し、ある時には犠牲にすることです。

 私たちは十字架であらわされた主イエスの愛をもう一度思います。罪のない主イエスが、私たちの罪、私の罪を負われて神の裁きを受け、私たちの、私の身代わりとして十字架にかかって下さった。このゆえに、今私たちは、私は罪赦され神の子とされ永遠のいのちに生かされているのであります。ここに愛があります。

2013/2/24

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講壇の花

2013年02月24日 | 生花
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天のマナ

2013年02月17日 | 教会案内

「望み得ないのになおも望みつつ」

 先週の召された一人の姉妹の感謝会が、藤枝で持たれました。グレースチャペルからは12名が参加し、14名の集いでした。最初の恵みの分かち合い(召された姉妹の信仰を振り返りながら、自分の模範とする信仰者について)で、その姉妹の娘さんが次のように言われました。「私の模範とする信仰者は、アブラハムです。なぜなら、アブラハムは、彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた信仰者であるからです」。

 ローマ人への手紙4章16節からにあるように、アブラハムは百歳になり、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であることを認めながらも、なお彼の信仰は弱らずに、神の約束(わたしはあなたを立てて多くの国民の父とした)を疑わず、神はその約束されたことを、また成就することができると確信したのでありました。だから、彼は義と認められたのであります。

 この世で何をもっても望み得ない状況に置かれても、ただ神の真実な約束の言葉による望みを抱き生きた信仰を私たちも持たせていただきたいのです。

2013/2/17

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講壇の花

2013年02月17日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年02月10日 | 説教要約

「躍り上がる喜び」 使徒行伝3章1~10節

 本日の午後にチャペル・コンサートが持たれます。ゲストと共に躍り上がる思いで主を賛美したいのです。この聖書の箇所にも踊りあがっり賛美した人が出てきます。それは主の恵みによって不自由な足が癒されたのでありました。

Ⅰ 愛による奇蹟

 多くの人が行き来する美しの門に彼は、施しを得るために座り求めていました。そこへペテロとヨハネが通りかかり、彼に目を注ぎ彼に声をかけるのです。それは、まさに主イエスがなされた愛の姿でありました。彼は足が癒されるという奥深い求めはすでにあきらめ、お金や食べ物などという一時的な求めになっていました。しかし、主イエスの愛をいただいていた弟子達は、彼に最も必要なものは金銀ではなく、彼が自分で生きて行けるようにしてあげることであることを愛によって察知していたのです。

Ⅱ キリストの名による奇蹟

 ペテロは、主イエスの名によって彼をいやし立たせました。この奇蹟は、ペテロ自身の自前の力ではなく、ペテロが「この人が治って、あなた方の前に立っているのは・・・イエス・キリストの御名によるのです」(使徒4:10)と言っているように、主イエスの名、主イエスご自身がここにいて彼に触れ癒してしたということであります。

Ⅲ 神に栄光を帰した奇蹟

 癒された彼の驚きと喜びは想像を越えたものでありました。彼は、この神の奇蹟に感謝し、神をほめたたえることを忘れていませんでした。ペテロとヨハネと一緒に、神に栄光を帰すために宮に入って礼拝をささげたのです。これは、神に対する彼の態度、彼の心の中にも変革が起きたといえるのです。肉体の癒しだけに留まらず、彼の内が変えられたのです。

 主イエスは、私たちを癒し救い、神をほめたたえる者として変えてくださるのです。変えられた者は神をほめたたえ、神に栄光を帰しましょう。

2013/2/10 説教者 杉本守

 

 

 

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天のマナ

2013年02月10日 | 天のマナ

 「かなぐり捨てる」   

 毎年、箱根駅伝を皮切りに、全国各所でマラソンが行われます。静岡市では3月に駿府マラソンが行われます。東京マラソンでは、面白いことに仮装ランナーが大勢います。気ぐるみを着たり、大きな帽子をかぶったりしています。彼らを見ていると一つ心配をしてしまいます。最初は楽しいかもしれませんが、すぐに走りづらさを感じ、「最後まで行けるのかな」と。

 信仰生涯は、よくマラソンに例えられます。パウロも「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走ろうではないか」(ヘブル12:1)と言っています。またこの直前にパウロは、「いっさいの重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて」とも言っています。私達はいつの間にか、仮装ランナーのように走りにくい物をたくさん着けていないでしょうか?たくさんの重荷をこれもあれもと自分で抱え込み背負い込んで不安の穴に陥り、欲望により罪がからんでからんで縛られて身動きができなくなったりしてませんでしょうか?それらをまとめて一つの塊のように、こねてこねて圧縮して、主イエスに投げ告白し処理していただきましょう。かなぐり捨てるのです。

2013/2/10

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講壇の花

2013年02月10日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年02月03日 | 説教要約

「主イエスに仕える」 マタイによる福音書26章1~13節

 最高のプレゼントとは、「愛が込められていて、最高のタイミングで、一番にほしいもの」がもらえることでしょう。主イエスへの香油を注いだこの女性は、主イエスに喜ばれ、2000年間世界中で語り継がれています。

Ⅰ ささげものを喜ばれる主イエス

 ひとりの女性が、食事の席についていた主イエスに近寄り、高価な香油を全部注ぎました。弟子達は、無駄遣いをするといって憤りましたが、主イエスは喜ばれて彼女のささげものを受け入れました。

Ⅱ 主イエスが喜んだ理由

 主イエスが喜んだ理由を三つあげるとしたら、一つ目は、彼女の主イエスへの愛でありました。彼女の行為は、打算を越えた純粋な愛から出る献身的なささげものでありました。人に評価されるためでもなく、自己満足でもなく、ただ主イエスへの純粋な愛でありました。二つ目は、主イエスの思いを知り受け止めて時にかなったささげものでした。弟子達は、主イエスが数日後に十字架にかかられることを聞きながら、何の備えもしませんでした。しかし彼女は、そのことを受け止め、時を逃さず、ささげたのです。三つ目は、彼女のささげものは、主イエスの願いにマッチしたささげものでした。十字架の死に向かう主イエスに対して、使命を果たそうとする主イエスに対して、埋葬の用意をしたのです。

 私たちも彼女のように、主イエスを愛し、主のお心を知り、それに添って今しか出来ない最高の仕え方をし、主イエスに喜んでいただきたいのです。

2013/2/3 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年02月03日 | 天のマナ

「クリスチャン生涯は永遠」 

 主イエスを信じ救われた私達は、罪赦され義とせられ、神の子とせられ、永遠の命を受けている者であります。そしてそのクリスチャン(キリストに属する者)の生涯は、世の人の生涯とは全く違います。世の人の生涯は、この世に誕生(または胎に宿る)してからこの世で息を引き取る(肉体の死)時までで、それが全てであります。いかにこの世での繁栄するかというものであり、私達も救いを受ける前はそういう考え方でありました。しかし、救いを受けてからは、自らがこの世に誕生する以前から神の御手の中にあったこと(エペソ1:4、エレミヤ1:5)、そしてこの世に生を受け、この世で息を引き取り、そしてさらに永遠の御国に永遠に住まうという生涯にと変えられたのであります。

 つまり、クリスチャンの生涯は、この世で息を引き取る死で終わりではなく、その先に続く確かな永遠の御国での歩みを含んだものであります。ですから、クリスチャンの生涯がそうであるので、クリスチャンの歩みはこの世だけの尺としてではなく、永遠を尺として考えるものでなければならないのです。なんと幸いでしょうか。

 「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招きいれて下さったあふるる恵みの神は」 (Ⅰペテロ5:10)

2013/1/3

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