静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年01月31日 | 天のマナ
 「一つ一つのことに神の栄光があらわれる」

 時々、牧師はメッセージ中に、聖霊に示され導かれ準備していないことを語ることがあります。先週の礼拝でのメッセージ中に私は、聖霊によって次の事を気づかされ語りました。今までは、「神の栄光があらわれる」というと、何か大きな集会を開いたり、多くの人々が救われたり、信仰に燃やされ献身したりすることと思っていました。しかし、それだけではないことを示されたのです。「神の栄光があらわれる」とは、日々の働きの中においても、神が私達を通して「神の栄光をあらわしてくださっている」ということです。雑用だと思っていたこと、毎日の繰り返しだと思っていたことにも、神の栄光はあらわれていますし、神の御業はそこにも進んでいるのです。家庭での一枚一枚の皿洗いにも、部屋の掃除にも、ゴミ捨にも、料理を作ることから着替え、歯を磨く、風呂に入ることにもです。仕事場での書類作成にも、伝票処理にも、コピーや印刷にも、車の運転、レジから外での作業に至るまで、クリスチャンにとって一つ一つが神の栄光をあらわし、神が御業を進めることに加わらせていただいているのです。もっとこの意識を深めたいのです。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(Ⅰコリント10:31)

2016・1・31
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天のマナ

2016年01月24日 | 天のマナ
「神によって立っている」

 「いつからだろう、神により立たされ生かされている」と感じて始めたのは。若い時は、「自分の力で生きている」と思っていた。それが当たり前だった。今では、「自分の力では立っていけない、やっていけない。神に頼るしかない」と認め祈っている。若い頃は、自分の思うように何でもできると思っていた。しかし、人生を重ねていくと思い通りに行かないことが多く、どうしても理解できないこともある。また社会には理不尽なことが多い。だからといって、自分の思い通りに行くことが良いというわけでもないことがわかってくる。さらに、自らの言動や心の内を見つめると、罪深さを自覚するしかない。外からだけではなく内からも、自分の力では立っていけないし、やっていけないことを知らされ認めるしかない。こんな私を受け入れ共に歩んでくれている家族、教会、社会があるから歩めているし、何よりも神が赦し受け入れ支え、共に歩んで下さっているから今の歩みがある。ただただ感謝である。社会的に、信仰的にも成長するというのは、こういうことなのだろう。
 「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」(Ⅰコリント15:10)

2016・1・24
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天のマナ

2016年01月17日 | 天のマナ
 「喜びを共に分かち合いたい神の御心」 

 主なる神は、人を用いて福音を広め教会を建て上げようと決められました。全能の神であるので、自らだけでなされたらすぐに成し遂げられたはずであるのに、余計な時間と労を要する人を用いることとされたのです。なぜだろうと黙想しました。一つ教えられたのは、「主なる神は私達と喜びを分かち合いたいという優しさで溢れている」ということです。
 あるお父さんが犬小屋を作り始めました。自分だけですれば時間も手間もかけずにできるのに、まだ小さい息子を呼び一緒に組み立て始めました。息子を教えながら、時間も労も2倍、いや3倍かかりましたが、犬小屋は完成しました。実際、息子は父を助けるどころか、父の労を増やすばかりでしたが、それでも息子は、自分がたくさん労したという顔をして、完成した犬小屋を見て喜びました。父も息子のその笑顔を喜び、息子と共に時間を過ごし、同じ目的に対して労をすることができて喜だのでした。
「水をくんだ僕たちは知っていた」(ヨハネ2:9)。主イエス様と一緒に喜びたいのです。

2016・1・17
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天のマナ

2016年01月10日 | 天のマナ
 「罪を赦しの痛み」  

「あなたがたが、代価を払って買いとられたのだ」(Ⅰコリ6:19)

 家や車を購入する際、多くの人は銀行などからお金を借りて、返済していきます。その返済は自分の経済にみあった計画でないと、行き詰ってしまいます。もし行き詰ってしまったら、その家や車は取り上げられてしまうでしょう。しかし、もしあなたが「代わりに払ってあげよう」と言って払ったなら、その人は返済か解放され悩まなくてすみます。けれども、代わりに払ったあなたには大きな損となります。家族や親しい人ならまだしも、知らない人の借金を肩代わりする人はまずいません。罪を赦すことは、その借金を棒引きにし引き受けてあげるようなことで、自分の痛みとして負う事です。なかなか簡単にはできません。自分が損することなくしては、赦しはありませんし、赦しは愛がなければできません。
 
 主イエスは、あなたの罪を赦して下さいました。あなたの罪の代価を代わりに十字架で命をもって払われ、あなたを贖われたのです。あなたが富むために、主イエスは貧しくなられました。あなたが救われるために、主イエスはあなたが受ける痛みを自分の痛みとして負われました。ただ、ただ、あなたを愛して負われたのです。

2016・1・10
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