静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2020年08月30日 | 天のマナ
 「生きているのではなく生かされている」 (ヤコブ4:15)

 妻が入院し、18日間、私は一人での生活でした(娘たちに助けられましたが)。今まで家事の部分は、一部を除き、夕食作り、掃除、洗濯、散髪、食品から衣類までの買い物、植木に水、衣替えなどすべて妻にしてもらっていました。しかしこの間は、全て自分でやらないとどうにもなりません。ティッシュが切れ、シンクのゴミネットもなくなります。今までの牧師としての働きに集中しスムーズにできていたのは、妻のおかげなのだと痛感しました。日常生活のこともすべてやりながらですと、普段の働きも以前のようには進みません。働きだけではなく、気力も落ちます。

 時々、ドラマで、外で働いている夫が、家にいる妻に、「俺が稼いでいる」と豪語しますが、そういう人は何もわかっていませんね。支えられて働くことができているのです。土台の上に家を建てるように、生活の家事(土台)の上に、社会で働くことができているのです。

 人は自分で生きていると思っていますが、生かされているのです。周りの人に助けられ、何よりも神さまに助けられて生かされているのです。ただただ感謝しかありません。毎夜、寝る前に神に感謝の祈りをしていますが、昨夜から寝る前に妻への感謝の言葉も始めました。
「主の御心であれば、わたしは生きながらえもし、あの事もこの事もしよう」
(ヤコブ4:15)
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天のマナ

2020年08月23日 | 天のマナ
 「来年より新しい翻訳の聖書に変更します」

 神の言葉である聖書は、原典において誤りがありません。私たちはこの信仰に立っています。旧約はヘブル語で、新約はギリシャ語で神の霊感によって原著者らが記しましたが、その原典は今はありません。その原典を写した本(写本)が多く見つかっています。それらから世界の言葉に翻訳されているのが私達がもっている聖書です。
 ここ数年で、二つの新しく翻訳された日本語の聖書が出版されました。新改訳2017と協会共同訳(2018)です。総会でも述べらた通りに、グレース・チャペルの礼拝、祈祷会などの公の場では協会共同訳を今後使用いたします。秋の予定でしたが、2021年の新年礼拝式から使用いたします。個人で用いられる聖書は自由です。今までの口語訳でも新改訳でも新改訳2017でも結構です。新年礼拝までに協会共同訳(2018)を購入される兄姉は、引照付きでない方、続編付きでない方をご購入して下さい。教会でも貸し出し用に購入いたします。詳しくは、秋に学び会をいたします。または教会限定のユーチューブをご覧ください。
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天のマナ

2020年08月16日 | 天のマナ
 「一体である夫婦」

 人間関係で最も深い関係は、夫婦の関係であります。ある方は、「血が繋がっている親子や兄弟の方が深いのではないか、結局は夫婦なんて血も繋がっていないし、育ちも違うので赤の他人(全く縁もゆかりもない他人、完全に無関係な人)ではないか」とおっしゃる方も世にはおられるかも知れません。しかし、神の言葉である聖書は、「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2章24節)と語ります。夫婦関係は、「夫は妻であり、妻は夫である」という、まさしく一体なのです。夫婦は別々ではなく一体ですから、夫が痛めば妻も痛み、妻が喜べば夫も喜び、妻を愛することは自分を愛すること、夫を大切にすることは自分を大切にすることなのです。今回の妻の病いとその治療生活、手術を通して、「夫婦って一体なんだなぁ」と深く感じています。普段は、口ではあれこれと言い合っていますが、深いところで繋がり一体であることを感じます。その一体感は、主によって年々深められていくのです。グレース・チャペルにも麗しい熟年夫妻の方々がおられることを嬉しく思っています。
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天のマナ

2020年08月09日 | 天のマナ
「神の確かさによる平安と喜び」      

 今週は、仏教では「お盆」ということであります。「お盆」とは、先祖が死後の世界から、この世界に帰って来るという期間のことです。そこで親族が集まり、先祖を迎え供養します。先祖に感謝する気持ち、亡くなった方をしのぶ気持ち、もう一度会いたいという思いは理解できますが、本当に亡くなった方々が帰ってくるのでしょうか。情から出る願望なのではないのでしょうか。記念の時は持つことは良いのでしょうが、もし供養しなければならない状況にあるというならば、彼らも地上に残された者たちも辛い状態であり、そういう教えは悲しいものであります。

 私たちキリスト者は、亡くなった方々を祭ったり供養したりはしません。拝するのは神のみであり、人は神になりませんし、被造物である人を拝んだりはしません。また、主イエスを信じた救われた彼らは、この世界に帰ってくる必要がありません。パラダイスに安息していて、終末に訪れる永遠の神の国を待っているからです。また最後の審判にて主イエスが彼らを弁護して下さいますので、供養は必要ありません。彼らの名はすでに天の書に名が記され、聖霊なる神によって、神の国に入ることが保証されているのです。さらに、主の再臨の時には、私たちは永遠の神の国で顔と顔を合わせて会い、神をほめたたえ永遠に神の国で住まうのです。
「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:14)
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天のマナ

2020年08月02日 | 天のマナ
「救いの確信」(救われたことを確認する) ローマ10:9~10

 父なる神が、御子イエス・キリストによって与えて下さった救いは豊かであります。その最初は、「義認」「新生」と言われ、英語ではボーン・アゲイン(born again:ヨハネ3:3)、生まれ変わることです。私たちクリスチャンは、イエスを信じた時、イエスを信じる祈りをし告白しました。その時に神の側では、私たちを生まれ変わらせて下さったのです。これは主の恵みです。あれら3年、5年、10年、20年、50年と経ちました。救いの確信をお持ちでしょうか?救いの確信を持つためには以下のことを確認することです。

・告白の確認・・・イエス様を信じる告白をしたかどうか思い出せない方は、「私はイエス様を
 救い主として信じます。信じています。」と本日の聖餐式の前の祈りでいたしましょう。
・悔い改めの確認・・・示された罪があるなら、「これこれの罪をお赦し下さい」と悔い改めま
 しょう。悔いるだけではなく、「その罪から離れます。神に従う方向転換をします」とこれも
 祈りましょう。
・み言葉に土台した信仰の確認・・・自分の信仰の土台は何でしょうか。それは自分の意志や感
 情や行動ではありません。これらを土台にしていては、上下が必ず起こります。私たちの信仰
 の土台は、救いのみ言葉です。み言葉は変わりません。救いのみ言葉を握りましょう。救いの
 言葉を忘れた方は、救いの言葉を今からでも遅くありません。聖書を読み、示されたみ言葉を
 救いの言葉として握りましょう。
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