静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年01月31日 | 説教要約
「あなたの人生の主人は」 マタイによる福音書6章19~24節

 あなたの宝はなんでしょうか?ある人はお金かもしれませんし、またある人は地位や名声かもしれません。家族という人もいるでしょう。宝は大切なものです。イエス様は宝を持つことを否定してはいません。何かを素晴らしいと価値を認めること、それらを大事にすることは、神が人間に与えた思いです。
 しかし、だからといって何でも宝にしていいかというと、そうではありません。何を宝にするのか、そのものは宝にふさわしいのかと考える必要があります。なぜなら、主イエスは「あなたの宝のあるとろに、あなたの心もある」と言われています。何を宝にするかによって、その宝は、その人の歩みに大きな影響を与えるのです。

 お金の亡者になり身を滅ぼすことも聞きますし、地位にしがみつき醜態をさらす話もあります。逆に、社会的な貢献をし後世に励みを与える話もあります。主イエスは、「あなたの宝を天に蓄えなさい」と言われました。宝に使われるのではなく、宝を用いて、神の栄光のために用いるのです。自分のためにではなく神のために、隣人のために使うことが、天に宝を蓄えることです。これこそが、富を主人にするのではなく、神を主人にする歩みです。その者をどんなに神は喜び祝されるでしょうか。

2010/1/31 説教者 杉本守
 
 
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天のマナ

2010年01月31日 | 天のマナ
「伝道あれこれ」  「わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)

 私たちクリスチャンは、先に救われた者として、主イエスこそが救い主であることを伝える尊い使命を与えられています。主イエスは、私たちを信頼し、聖霊の助けによってこのことをなすことを委ねておられます。ではどのような方法で福音を伝えればよいのでしょうか。

 先日のシメオン・セルで、奥様の後に主イエスに導かれたご主人が、「自分の場合、最初は義理で教会へ行くようになった」と言っておられました。妻がお世話になっている教会や牧師への義理です。これは義理伝道で、導入の一つのきっかけとしては、日本的で日本の伝道にはあっています。他にも、悲しみや病いや試練などの出来事に遭っている場合の家族や友人は、心を開きやすい時であります。そうした時に、わかりやすく読みやすい信仰良書やきれいなみ言葉入りのカードや賛美などのCDをプレゼントするのも一つの伝道のきっかけとなります。これは慰め伝道です。

 人生には、誰にでも山もありますが谷も必ずあります。その谷を通って、「人生とは、生きることとは、死ぬこととは」と悩むのです。その時こそ、上を見上げ主イエスと出会うチャンスですし、私たちの出番です。

2010/1/31
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講壇の花

2010年01月31日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年01月24日 | 説教要約
「神を信じる者は動かされない」 詩篇16篇1~11節

 この詩人は、神の臨在の恵みに生きた者であります。

Ⅰ 神の臨在を信じる聖徒
 この詩人は、ダビデであろうと言われていますが、彼は神に対する信仰告白をしています。「あなたはわたしの主」「あなたのほかに幸いはない」とです。そして、偶像の神を拝む愚かさを語り、自らは真の神を自分の前に置いたと告白しています。
 「置いた」は完了形で、決断的な自覚によるものであります。以前はダビデの前にあったのは欲望でしたが、今はそうではない、主なる神がおられるのです。主の臨在こそが、人間の魂の最深の要求を満たすことができるのです。

Ⅱ 動かされない聖徒
 人生には揺るされる出来事が起こりますが、主を自らの前に置く者は、決して動かれることはないのです。ダビデもそうでありましたし、パウロも法廷で福音を伝えた時、一人でありましたが、主が右におられたので平安でありました。「右」とは、当時の弁護者の立つ位置であり、競技における勝利者の位置であります。主が、パウロの弁護人であり、勝利者として立たれていたのです。

 あなたは何を、誰を自らの前に置いているのでしょうか?臨在の主を置くのです。

2010/1/24 説教者 杉本守 
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天のマナ

2010年01月24日 | 天のマナ
「ゆるされていく過程(謝罪と償い)」 
 
 小学生頃に毎日のように公園で野球をしていました。ある時、私の打ったボールが草むらへ飛んでいき、みんなで探しても見つかりません。野球は中断し、ボールを持ってきてくれた友達からは、弁償をするように言われ、私はへこみました。「悪かった」と謝るだけではなく、家に帰って親に事情を話し、お金をもらい店に買いに行き、ボールを買い弁償して、野球は再開しました。これらの過程を踏んで、私はゆるされ、信頼を回復される貴重な経験をしたのでした。これは私の人格形成において、非常に大切な欠かせない出来事でありました。

 私達は失敗や過ちをし、時には人を失望させ、自らをも失望させる弱い者であります。故意にしたことでなくても、ゆるされていく過程を踏み、ゆるしと信頼の回復を得る必要があるのです。謝罪すれば償いはしなくてよいのではなく、償いをすれば謝罪は必要でないのではなく、本当のゆるしを得るためには、「謝罪と償い」の両方が必要であります。

 なぜ、神に対する私達の罪は謝罪するだけで赦されるのでしょうか。それは、払いきれない罪の代価(償い)を、すでに救い主イエスが十字架の上で払ってくださったがゆえであります。本当にこの神の犠牲の愛を知った者は、罪から離れて行くのです。

2010/1/24
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講壇の花

2010年01月24日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年01月17日 | 説教要約
「私の罪をお赦しください」  マタイによる福音書6章9~14節

 祈りとは、「父なる神との霊的な交わり」であります。祈りの中で私たちの思いを父なる神に語り、私たちは祈りの中で、父なる神にみ言葉を示されるのです。
 主イエスは、ここで祈りの手本と言われる主の祈りを弟子たちに教えてました。

Ⅰ 神を崇める三つの祈り
 まずは呼びかけです。永遠で全能の唯一の神を、「父」と呼びかけなさいと言われました。この特権はなんという幸いでしょうか。
 「み名が崇められますように」とは、この神こそが真の唯一の世界の、そして私の主であることの告白であり、「み国がきますように」とは、神が主権をもって世界に、私に、恵みによる支配をなし、「み心が成りますように」とは、神の恵みの支配が具体的に実現されますようにということであります。

Ⅱ 人間の必要を求める三つの祈り
 次に、主イエスは私たちの必要をおぼえ、それを父なる神の前に祈りなさいと語られました。
 「日ごとの食物を今日も与えたまえ」です。肉体を持って歩んでくださった主イエスは、私たちの必要なことをご存知なのです。次は、「私たちの罪をおゆるしください」です。私たちは罪深く、神に対し悔い改めをし神のゆるしの中にあり、隣人をゆるす者とされ、さらに神のゆるしの深みに入る必要があるのです。三つ目は、「試みにあわせず」です。私たちにサタンは常に誘惑をしてきます。私たちは弱いのですから、主なる神に日々、守りを祈るのです。

 自らの力を過信せず、祈りの中にあって神の力によって、日々守られていこうではありませんか。

2010/1/17 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年01月17日 | 天のマナ
「造り変えてください」
  
 一昨日持たれましたグレース・ジャム(学生、青年のグループ)には、17名が集い幸いな時を持ちました。その中で、Teaching(ティーチング)タイムを梅屋町教会の大学生が、「新しくされる」というタイトルで語ってくれました。

 その内容は「いくら掃除のプロである掃除機でさえ、自らにたまったゴミやほこりを取り除いてもらわないと使用できない」との例話から、「私達も自分ではどうすることもできないところ、自分では変えられないところを、神様に新しく変えてもらう必要がある」というものでした。私達は、掃除機ではありませんが、神に造られた人間は陶器に、造られた神は陶器師に聖書の中で譬えられています。陶器師は、その陶器が大切であればあるほど、陶器が欠けたり汚れた場合、造り直したり、きれいにしたりします。主イエスは、あなたを造り直してくださる方です。

「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」(エレミヤ18:6)
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受付の花

2010年01月17日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年01月10日 | 説教要約
「主の宮に住む者」詩篇15篇1~5節

 著者は、主の宮に住みことを願っていますが、主の宮とは、主の宮に住む者とはどういうことなのかを、み言葉に聴き入りましょう。

Ⅰ 主の宮に住むこと
 主の宮(宮以前は幕屋)とは、主の臨在の場であります。主なる神が神の民の中に臨在される場を設けたのでした。主なる神は遍在(宇宙のどこにでもおられる)の方でありますが、自らの臨在の場として、旧約時代においては宮に、新約時代においては教会に、永遠的にみれば神の国を備えられたのです。
 主の宮に住むとは、神の臨在の場で、神との生命的な継続的な交わりをあらわしています。 

Ⅱ 主の宮に住む者とは
 この主の宮に誰が住むことができるのでしょうか。
 きよい人、主なる神によってきよくされた者であります。主イエスを救い主と信じ、悔い改め罪を赦され義とせられた者は、すでに神の聖なる民の一員とされています。所属としてはきよくされていて、その者の内にはきよめは始まっています。
 しかし、そこに留まらずにきよい民にふさわしくなるために、主なる神によってお取り扱いを受け、きよめの経験をいただき、きよめられ続けていく必要があるのです。そのようなきよくされたいく者は、言動においても御霊の実を結び、主の宮に住み、主なる神との豊かな霊的交わりにいかされるのです。

 私達も、主のきよさに与り、主の宮に住む者となおされていこうではありませんか。

2010/1/10 説教者 杉本守
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