静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年04月29日 | 説教要約
「主イエスの家族」 マルコによる福音書3章20~35節
 
 家族とはなんでしょうか?「血縁の者」ということもでき、「共に生き助け合う関係」や「共に喜び、共に泣く者」ともいえます。
 
 しかし、ここで主イエスは、「そういうものを大切にしながらも、主イエスがどういうお方(救い主)で、何のためにこの地にこられたか(使命:救いを与え人間を神に立ち帰らせる)を知っていて、信じている者こそ、肉親を越えた霊的な神の家族である」と語られたのであります。神の家族とは、そういう神の御心を知り行っている者達のことです。
 
 肉親であっても、律法を研究している者達であっても、この神の御心を知らないで、主イエスを連れ戻しに来たり、主イエスの業を批判したりする者に、主イエスはどんなに悲しまれ痛まれたでしょう。主イエスは、私達の肉親や親しい者に信仰が理解されない痛みを、わかってくださり、癒しの御手を伸ばして触れてくださる方であります。
 
 主イエスを信じる者達を、主イエスは神の家族として招き、御許に置き、共に歩んでくださる方であるのです。神の家族とされていることを喜びましょう。

2007年4月29日 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ(2007/5/6)

2007年04月29日 | 天のマナ
「主イエスと共に歓喜する」   

 土曜日の朝6時半前、教会の玄関を開けようと鍵に手を掛けると、一人の姉妹が聖書と聖歌を手に持ち、爽やかな朝の風を感じながら、教会堂で持たれる早天祈祷会に来られました。その聖書と聖歌を手に持って歩く姿は、まさしく聖徒の姿でうれしく思いました。もちろん外側の姿以上に、主日の備えの日の朝、主を見上げ、主を賛美し、主の御言葉を聴き、主に祈り備えるという内側の信仰姿勢を、主イエスはどんなに喜んでおられるかと思ったのでありました。

 この主日の朝、礼拝に向かう私達の姿を、礼拝に集っている私達の姿を、主に賛美をささげ、主の御言葉に聴き、主に祈る私達の姿をどんなに主イエスが喜ばれているでしょうか。また、この朝は、洗礼式を持つことができるのは、天においてどんなに歓喜が溢れているでしょう。そして、私達一人一人、私達の教会にとっても、何よりも勝る喜びであります。
 
 主イエスは、次のように言われました。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう」(ルカ15:10)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2007年04月29日 | 生花

今日は洗礼式がありました。



2007年4月29日
担当:S.F姉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2007年04月22日 | 説教要約
「神に仕える者は」

新約聖書・マルコによる福音書 3章13-19節

 『さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、』

 マルコによる福音書3章に戻り、主イエスの生涯を再び見ていきます。本日の箇所は、主イエスが12弟子を選ばれた箇所であります。主イエスは、12弟子を通して神の国(神の支配)を訪れさせるのです。

Ⅰ 呼び寄せられ立てられた者達
 重要な出来事(洗礼、変貌、十字架)の前に主イエスは、夜を徹して祈られたのであります。この弟子を選ぶ時もそうでありました。旧約における神の民(イスラエル)の12部族に対応して、新約の時代、新しい神の民の中核に12弟子を据えられたのであります。その人達の過去の姿を見ると、親ローマである取税人マタイと反ローマの熱心党のシモンという相反する者だったり、一般庶民の漁師であったりとさまざまであります。けれども、私達の人間の考えとは違い、主イエスは深い神の知恵をもって、選ばれたてたのでありました。

Ⅱ 呼び寄せられ立てられた目的
 なぜ、主イエスはこれらの者達を選ばれたのでしょうか?まずは、主イエスの御傍に置くためであります。主イエスご自身の愛を豊かに注ぎ、神に仕える者の姿を
見せ、互いに愛し合うためでありました。続いて、教育と訓練を積み、福音宣教に遣わすためであります。主イエスは、弟子達を通して、神から離れサタンの支配、罪の支配の中で迷い痛んでいる人に神の国(神の愛の支配)を訪れさせるために選び立てたのであります。その宣教の前進のために特別な権威を授けられました。

 主イエスは、12弟子を使徒として選び召し用いになられました。主イエスは、この時、私達を神の聖徒として選び、同じ目的のために用いてくださるのです。まずは、主の御許で主の愛を注いでいただき、宣教に遣わされていきましょう。

2007年4月22日 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ(2007/4/22)

2007年04月22日 | 天のマナ
「憎しみからは何も良いものは生まれません」   
  先週は、日本でも海を越えたアメリカでも大きな銃の事件が起こりました。被害者、被害者の家族、そして私達も心を痛めました。遺族関係者に神の特別な慰めを祈り、福音が痛んでいる人、迷っている人に届くように励みたいのです。
ペンシルバニア州のランカスターという田舎町に、アーミッシュと呼ばれる、敬虔なクリスチャンの村落があります。この平穏な村落に、最近悲劇が起こりました。銃を持った男が小学校に乱入して、少女達を射殺した後、自殺したのです。なぜこんな事件が・・・・・。ところがこのやみの事件の中に、光が輝きました。後日、大けがを負った少女が、自分の姉の行為を語り出したのです。彼女の姉は、妹やほかの幼い少女たちを逃すために身を呈したのです。犯人が少女を射殺すると、残りの彼女たちは互いにかばいひるまなかったのです。さらに驚いたことに、アーミッシュの人達は、「私達は犯人を赦します。憎しみからは何も良いものは生まれません。赦して、前進します」とメディアに訴えました。そして犯人の葬儀に参列し、犯人の妻や家族に、慰めの言葉をかけたのです。憎しみからは何も良いものは生まれません。主イエスの十字架の愛により、良きものを生み出す愛とよるゆるしを人間が受けていくことを願い、福音を伝えたいのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2007年04月22日 | 生花



2007年4月22日
担当J・S姉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ(2007/4/15)

2007年04月15日 | 天のマナ
今回の「天のマナ」は以下の幸いな人の箇所より要約させていただきました。

「抱きしめる愛」   
~幸いな人 2007年4月号 掲載証詞 P.114~
 娘は勉強が苦手で宿題を始めるとすぐイライラし、時にはひっくり返って泣き叫びます。「どうせできないよー。もうやだよー。」と泣かれると、私も冷静に対応できず怒ってしまいます。そのようなことが続いたある日、私が「神様もうお手上げです。私の力では感情をコントロールできず怒ってしまいます。私を変えて下さい。」と祈ると、神様は私に普段の娘の明るい笑顔、元気な姿を思い出させ、神様が娘を造られた本来の姿をもう一度教えて下さったのです。その日も娘は宿題をやり始めましたが、いつものようにイライラし大きな声を出し始めました。私はとっさに娘の所に行き「学校で頑張って来たから疲れたんでしょ。お母さんの元気を分けてあげようか」と言って抱きしめました。娘はふっと優しい顔になり「お母さんの元気ちょうだい」と言ってしばらく抱かれた後、何事も無かったかのように宿題を終わらせてしまいました。祈りの中で、主はまず私を抱きしめて下さり、娘を抱きしめる愛を私に与えて下さったのです。「どうか、彼の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。」 雅歌8:3 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2007年04月15日 | 説教要約
「信じて洗礼を受ける者は」

新約聖書・マルコによる福音書 16章9-20節

 『〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。 この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕』

 復活されて主イエスは、40日間弟子たちに自らを現されました。その40日の中で、復活の事実を示し、弟子達に命令を与えるのです。その命令の内容を見ていきましょう。

Ⅰ 宣べ伝えなさい
 主イエスの最初の命令は、「宣べ伝えよ」という命令でした。その内容は、「福音(救い主イエスが十字架と復活によってなされた救い)」であります。それは、死と罪の中に閉じ込められて永遠の滅びに向かって迷っていた人間にとって、歴史上最大のグレイトニュースであります。この福音を、神様が救いをなしてくださったことを伝えなさいというのです。誰にでしょうか。それは、「全世界に出て行って神に造られた者に」であり、国、人種、年齢、性別、社会的な位置に関係なく、世界中のすべての人間にであります。

Ⅱ 信じて洗礼を受けなさい
 第二番目の命令は、「その宣教を聴いたならば、その福音を信じ受け入れ、洗礼を受けなさい」ということであります。また、それは弟子達に、「福音を信じた者に洗礼を授けない」という命令であります。信じた者が宣教をしていく上で、神は特別な御業をなされるという約束も続きます。

 素晴らしい福音をいただいている私達は、宣教という業の中で、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。

2007年4月15日 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2007年04月15日 | 生花

色鮮やか!

アジサイ(紫陽花) デルフィニュウム ナデシコ(撫子) 他

2007年4月15日
担当A.N姉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2007年04月08日 | 説教要約
「死に勝利された救い主」

『さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。
さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。』新約聖書・マルコによる福音書 15:42-16:9

 キリスト教の三大祝日は、主イエスの御降誕をお祝いしたクリスマス、主イエスの復活を記念したイースター、聖霊が降り教会がスタートしたペンテコステです。

 本日はイースターを共に喜びましょう。

Ⅰ 石はすでに転がされていた
 十字架に掛かられた主イエスは、岩を掘って作られた墓に、亜麻布で巻かれて納められました。墓の入り口には大きな岩が転がされ、封印がされたのでありました。しかし、三日目の朝、主イエスが言われていたように、主イエスは死を打ち破り、墓からよみがえられたのでした。主イエスを慕っていた女性達は、遺体に香油を塗るために墓に来ましたが、すでに岩は転がされ、主イエスはよみがえられていました。「目を見上げると、石はすでに転がされていた」。

Ⅱ よみがえられて墓にはおられない
 もちろん、主イエスは墓にはいませんでした。真っ白な衣を来た若者が座っていて、主イエスがよみがえられ、ガリラヤで再会きることを伝えたのでありました。

 私達は主イエスをどこに探しているでしょうか?死や墓でしょうか?悲しみや落胆、恐れ、不信でしょうか?そこには入ってきてくださった主は、そこを栄光の場に変え、すでに勝利を取られています。いつまでもそれらに目を注ぐのではなく、目を上げてよみがえりの主を見ましょう。

2007年4月8日 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする