静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2023年03月26日 | 天のマナ
 「主に対して精一杯する輝き」
 先週は、WBC(ワールド・ベイスボール・クラッシク)で、日本中が盛り上がりました。優勝した時の選手達の笑顔は輝いていました。彼らの輝きはその時だけではなく、他の時も輝いていました。調子の悪い選手もいましたが、彼らは励まし合い支え合っていました。出場できない選手やケガした選手もいましたが、ユニホームがベンチにかけられ、優勝した時にはそのユニホームも輪に加わっていました。「チームメイトとの仲の良さ」という輝きです。そして一つ一つのプレーの直向(ひたむき)さも輝いていました。私は個人的には、「頑張れ」という言葉はなるべく使わないようにしています。「我を張る(自分を押し通す)」と、衝突、歪(ひずみ)、綻(ほころ)びが出て来るからです。私は「頑張れ」よりも「精一杯で行こう(Do you best)」と声をかけるようにしています。たとえ、望むような成績が得られなくても、精一杯なしたならそれは美しいからです。他の事でも人の精一杯の行動は輝き感動を与えます。先週の午後に納骨堂の清掃をして下さいました。全ての骨壺を一度出して、隅から隅まで清掃して下さったと聞きました。心を込めた精一杯の主への御奉仕を感謝いたします。ひとりひとりの御奉仕に、「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)、十字架を前に主イエスに香油を注いだマリヤの精一杯の輝きをみるのです。
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天のマナ

2023年03月19日 | 天のマナ
 「主よ」と祈りひとつひとつを始める幸い        
 メッセージの箇所を決める時には「主よ、どの箇所を開き語りましょうか」、天のマナを記す時には「主よ、何を記しましょうか」、賛美を選曲する時には「主よ、どの賛美にいたしましょうか」、物事を進める時には「主よ、どちらに進みましょうか、知恵と力を与えて下さい」と、隣人と接するときには「主よ、愛を注いで下さい」と、伝道する時には「主よ、言葉を与えて下さい」と、時には言葉に出して祈り、時には思いの中で祈り、聖霊の働きを願います。「わたしにはできませんが、主によって成すことができます」とも続けて祈ります。祈ると祈らないとでは、まず「平安」が違います。そして「確信」が違います。祈らないと平安がありませんし、確信がありません。祈る時に、ひとつひとつの事柄に主の導きと助けがあり、成して行く時に主が共に業を成して下さっていることを感じ、成し終えた時に、「高ぶる」ことなく、「卑屈」にもなることもなく、「感謝」がただただあるのです。
 「主よ」と祈ってひとつひとつのことを始めてみましょう。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝と願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」(フィリピ4章6~7節)。
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天のマナ

2023年03月12日 | 天のマナ
 「いばらの冠」 「茨で冠を編んで頭に載せ」(マタイ27:29)。
 クリスマスの前約一か月間を、主イエスのご降誕を待ち望む期間とし待降節と呼びますが、イースター(復活祭)の前はレント(受難節)と呼び、すでにその期間に入っております。主イエスが私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって神の裁きを受けるために十字架に向かった期間です。最後の週は、受難週となります。
 講壇に活けられた生花は、レントにふさわしいものであります。タイトルは「いばらの冠」です。2センチもある多くの棘で編まれた冠、その下に赤い花が活けられています。それはイエスが不義な裁判を受けた時から、ゴルゴダの丘の十字架の上まで被せられた冠を表し、その下の赤い花は、主イエスの血潮を表しています。主イエスは十字架上で肉を裂かれ、血を流され、神の赦しと新しい命を私たちの注ぎかけたのです。
 主イエスを十字架につけた彼らは、なんと王位と威厳の象徴である冠をいばらで編み、主イエスに被せ侮辱しあざけったのでした。いばらの冠は、神の独り子であり真の永遠の王に全くふさわしくありませんが、人の罪を負う受難の僕として主イエスは受けられたのでした。そのことにより、私たちの救いは救はなされたのです。
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レント(受難節)の生花

2023年03月12日 | 生花
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天のマナ

2023年03月05日 | 天のマナ
「聖霊によって使命を果たす」        
 木曜日の午前の祈祷会においては、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌に続き、先週からエゼキエル書の講解説教が始まりました。まず、1~3章において、すでにバビロンに捕囚され異国の地にあった祭司エゼキセル(およそ30歳)に、主はみ使いを遣わし語りかけ預言者として召したのでありました。「主は言われた。『人の子よ、~ 私はあなたを彼らに遣わす』。そこで彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(2章3~4節)と主はエゼキエルに言われました。「人の子よ」と1節でも3節でも呼びかけれています。「人の子よ」とは、二つの意味があります。それは「何か特別な存在ではなく、弱い被造物にすぎない人間のこと」で、ここで使われている意味です。もう一つの意味は、主イエスが、自らのことを言う時に使いました。それは、ダニエル書7章13~14節のメシヤ預言を引用し、自らがメシアであることを示したものであります。弱い被造物の人間なるエゼキエルは、自らの力でこの召命に対して立ったのではなく、主の霊によって立ち、預言者としての使命を果たしていったのです。「主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は、語りかける者に耳を傾けた。」(2)。私たちも聖霊によって立たせていただき、使命を果たしてまいりましょう。
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