静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年03月27日 | 天のマナ
 「今も生きておられる復活の主イエスによって」         
 
 どの時代にもどの世界においても、すべての人に共通した問題は、罪と死の問題であります。すべての人がこの問題の中に置かれています。そして、誰もがこの問題に勝つことができません。歴史の中で、蘇生した人はいますが、彼らはまた死んでしまいました。有名な哲学者や思想家も、宗教者たちも、みな死んで葬られお墓は大変に立派なものです。しかし、一人だけ死を打ち破られ今も生きておられる方がおられます。それこそ、復活された救い主イエス・キリストです。主イエスだけが、十字架と復活によって、これらの問題に対して勝利され、その勝利を人類に与えて下さったのです。この救いを信じ受け取る者は幸いです。死を打ち破り復活された主は、今も生きておられます。天に昇り、父なる神の右の座にて、私達のために執り成し祈り、神の国での私達の住まいを備えて下さっているのです。そして完成したら再臨し迎えに来て下さるのです。その時、私達は復活させられ、携挙されるのです。
 
 「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいつであろう」(Ⅰテサ4:16~17)
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天のマナ

2016年03月20日 | 天のマナ
 「一度で永遠に完全な贖い」

 「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造らず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル9章11~12節)

 「完了した」との十字架の言葉によって、主イエスは、贖いを成し遂げられました。罪の中にある人間への救いを完全に成し遂げられたのです。だから、救いに関して、人間が補足したり、成し遂げることは何もありません。目の前に神の恵みとして救いは置かれているのです。私達はただ、主イエスの救い主として受け入れ、十字架を仰ぎ、十字架は私の罪を負って主イエスが私の代わりにつけられたのだと信じることであります。そして自分の罪を認め告白し赦され、神に従う人生に向きをかえることであります。主イエスが成して下さった救いを感謝します。
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天のマナ

2016年03月13日 | 天のマナ
 「神の介入必要性」                               

 なぜ、神の独り子で ある主イエスは、人となり十字架にかかる必要があったのでしょうか。これは「罪」がどんなに恐ろしいものかを理解しなければわかりません。「罪」とは、神が人間を造られた本来の目的からそれ、神に従わず神に背を向け、自分を神として自己中心に歩み、そして数々の悪の思い、行いをすることであります。人は、他の人と比べることによって、自分には罪が「ある」とか「ない」とかと判断しますが、聖書は、人と比べてではなく、きよい神の前にあなたはどうあるのかと問います。1滴の猛毒も、100敵の猛毒もどちらも飲めるものではありません。小さな一つの罪であっても、罪の支払う報酬は死であります。人の意志や知識や経験によって真の平和が訪れたら、人の努力や修練や鍛練によって罪の解決ができたら、神のひとり子である主イエスは、わざわざ肉体をとって人となることはなかったでしょうし、十字架で死ぬ必要もなかったでしょう。人間の何かでは罪は決して解決できず、罪に染まった自我があるままの人間には真の平和は訪れません。それほど罪は恐ろしく、その罪に人間は汚れていて人間の内に深く入り込んでいるからです。人間の心には罪の泉が湧いています。自分の心、自分の口、自分の行動を見れば明らかです。だから、罪の全くない主イエスの命が払われる十字架の犠牲によるゆるし、きよめの泉が必要なのです。
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天のマナ

2016年03月06日 | 天のマナ
「神による平和」  (沖縄旅行②)          

 沖縄旅行の後半は、沖縄平和祈念公園、ひめゆりの塔という戦跡地を巡りました。平和祈念公園には、日本兵、アメリカ兵、民間人など戦争で亡くなられた24万人の名前が刻まれた記念碑が多く建てられ扇形に並んでいました。そこには敵味方のそれは関係なく、平和のメッセージが込められていました。

 アダムの罪以来、いつの時代にも人間の心の奥には罪に染まった自己中心で敵意を生み出す我があります。どうしたらこの我がきよめられ、敵意を取り除けるのでしょうか。それはイエス様の十字架による以外にはありません。イエス様は、真の平和をもたらすために十字架に掛かられたのです。すでに十字架の御業はなされ、真の平和の福音が訪れているのです。
 
 「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものをひとつのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14~16)。このイエスを救い主と信じる時、神による真の平和があなたにも訪れるのです。
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