静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年04月25日 | 説教要約
「勝利の十字架」 詩篇22篇

 この詩篇は、イザヤ書53章と同様、旧約聖書における十字架の予告を明らかにあらわしたものであります。主イエスの時代よりもはるか昔に、まるで十字架を見た人が記したように具体的であります。このメシヤの受難の詩、み言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ 嘆きの詩における十字架の苦しみ
 詩人は肉体的苦痛と敵による迫害の中で苦しみを受けていますが、十字架上の主イエスは、同じ言葉をもって、人類の贖いのために苦悩を受けたことを見るのです。ある聖書学者は、「主イエスは本当なら22篇全体を十字架上でお叫びになりたかった」と言うほどです。なぜなら、十字架の第四番目~第七番目の言葉をこの詩篇の中に見出すからです。

Ⅱ 讃えの詩における十字架の勝利
 22節からは、がらっと様相が変わり、嘆きの詩から讃えの詩に変わっています。父なる神に叫ぶ中で詩人は、叫びがきかれたことを確信し神をほめたたえているのです。主イエスも十字架上での叫びの中で、十字架は人間に対しては身代わり、父なる神に対しえては贖いの供え物であり、父なる神はそれをなだめの供え物として受け入れられ、主イエスの叫びはきかれたのでした。ここに救いがなされたのでした。ですから、主イエスは讃えの詩を叫び、主がなされた(アーサー)救いに対して成就したと延べたれたのでした。

 主イエスは、私たちの転換点に立ち、私たちの嘆きを負い、その嘆きを感謝とたたえの詩に変えてくだされるお方なのです。


2010・4・25 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年04月25日 | 天のマナ
「聖霊とわたしたちは」

 異邦人が主イエスの福音を聞き、主イエスを救い主と信じる出来事が、聖霊のわざによりなされていきました。異邦人の救いと異邦人への宣教をどのように受け留めてよいのか、割礼と律法などの課題も含め、エルサレムの教会の使徒をはじめ、ユダヤ人たちは会議をしたのでした。それがエルサレム会議(使徒行伝15章)で、福音が世界に広がるため、異邦人伝道への宣教においてこの会議は非常に重要なものとなりました。

 パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」との主張から、激しい論争がなされ、その後ペテロが発言し、さらには、バルナバとパウロによって各地でなされた異邦人の救いの事実が報告がされ、最後にヤコブが語ったのでありました。

 そして、結論として「聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがた(異邦人クリスチャン)に負わせないことを決めた」(使徒行伝15:28)と記されています。ここで大切なのは、わたしたちだけで決めたのではなく、わたしたち以上に聖霊なる神が、教会の会議を導きておられるということであります。

本日の教会総会もこの意識と信仰であらせていただきたいのです。

2010・4・25
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講壇の花

2010年04月25日 | 生花
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天のマナ

2010年04月18日 | 天のマナ
 「それが、あなたがたがなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)

 「なぜ礼拝をささげるのですか?それも毎週」と聞かれたことがありますか?
 
 第一にそれは、主なる神が真の神だからです。主権をもった唯一の真の神こそ、ほめたたえられる方であります。主権をもっていない人は神ではありません。主権をもった神の前に、人の側の有無はないのです。

 第二にそれは、主なる神が創造者であり、私たちは被造物、主なる神に造られた者だからです。主なる神は、私たち人を、創造者なる神を愛する者として、自分を愛するように隣人を愛する者として造られました。この二つは、私たち人を造られた目的であり、人として当然なすべきことであり、人が人である故であります。この二つは、神から離れた自己中心な人にはできません。神に立ち帰り、神との生きた関係にあり、神から愛をいただいく中で、できない者ができる者とされていくのです。「創造主なる神を愛する」とは、神を神として認め、拝し崇め、神のみ言葉を聴くことによって神の御心を知り、神によって造りかえられ満たされ、神の喜ばれる者とされること、つまり礼拝をささげることであります。神を愛することは神を礼拝することなのです。

 どのように主を愛してますか?礼拝に対する姿勢で、その方がどのように神を愛し神を畏敬してるかがわかります。何よりも礼拝を重んじ、聖別して(他のものと区別し主のものして)ささげましょう。

2010.4.18

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主日礼拝説教要約

2010年04月18日 | 説教要約
「み言葉を聴いて行う」 マタイによる福音書7章15~27節

 主イエスの山上の説教の最後の結びから、共に主のみ言葉に聴き入りましょう。
 15節からの「にせ預言者に警戒せよ」と24節からの「岩の上と砂の上に家を建てた人のたとえばなし」に共通するのは、「父(父なる神)のみ旨を行う者」、「主イエスのこれらの言葉をきいて行う者」からわかるように、「行う」とういうことです。この点に焦点を当ててみます。

Ⅰ み言葉を聴いて行う者に与えられる祝福
 み言葉を聴いて行う者に与えられる最初の祝福は、「天にいますわが父のみ旨を行う者だけが(天国に)入る」とあります。この地上では、神の国に入る確かな約束によって、み言葉を聴いて行う者は、平安を神が与えてくださるのです。そして実際に、この地上での使命が終わったときに、神の国に入るのです。 
 さらには、人生の嵐が来ても、み言葉を聴いて行う者は、岩の上(変わらないみ言葉)に人生を置いているので、倒されることがないのです。

Ⅱ み言葉を聴いて行うとは
 「聞く」とは一般的にきくことであり、「聴く」は自分のこととして限定的に身を入れてきくことであります。真にみ言葉に聴いていきますと、それは私たちに行動を起こさしめるのです。行動をもたらせない「きく」というものでないようにしたいのです。
 また「聴く」ことと「行う」ことを一語に要約すると「服従」となります。

 今週も主イエスに服従する者でありたいのです。

2010/4/18 説教者 杉本守
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講壇の花

2010年04月18日 | 生花
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天のマナ

2010年04月11日 | 天のマナ
「春キャンプの恵みの分かち合い」

 春キャンプのためにお祈りありがとうございます。キャンプに参加した一人の大学生が、文集に出してくださった恵みの分かち合いを記載させていただきます。

「今回のキャンプは、クリスチャンであることの素晴らしさを感じられました。病気を患ってから、出来なくなることが多くなる中で、マイナスをプラスに変えていこうと頑張ってきました。苦しまなければわからなかった神様の恵みは沢山あったけれど、失ってきたものの大きさを考えると割に合わないなと感じていました。

 そんな中、今回の講師に出会いました。先生は目が見えなくて、僕なんかよりもずっと辛い経験をしてきた方が、『僕達が流した涙は天国で神様がぬぐってくださる』と教えて下さいました。この言葉に心打たれました。今まで乗り越えてきた試練、またこれから耐えるべき困難に対して、神様は僕の労をねぎらって下さる。神様に『よく頑張ったね』なんて言われたら、きっと全てが報われるはずです。神様にこの身をささげ、これからも生きて行きます。」

「その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネ黙示録22章2節)

2010.4.11
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主日礼拝説教要約

2010年04月11日 | 説教要約
「わたしの神を誇る」 詩篇20篇1~9節

 この20篇は、詩篇の中にいくつかある王の詩と呼ばれるものの一つであります。王のためにとりなしと祝福が詩われています。

Ⅰ 主のみ名で祈る戦い
 ここでの「あなた」とは、油注がれた者(6)であり、任職された王(9)であります。王は戦いに先立ち、民の代表として神に礼拝をささげます。その王の願いの祈りとささげものをささげる行為が、主なる神に受け入れられ勝利が与えられるようにと、レビ人と会衆は声を合わせて詩いました。また主のみ名で祈ったのであります。

Ⅱ 主のみ名を誇る戦い
 戦いの勝利のカギは、神の右の手の救いであります。他の王達は、自分の車や馬を誇りました。しかし、そこには勝利のカギはありません。少年ダビデは、ゴリアテを倒す時、「万軍の主の名」によって戦い勝利をおさめました。私たちのなすべきことは、ダビデのように戦いの中で、神を誇る(おぼえる、呼ぶ、記録する)ことであります。

 私たちクリスチャンの戦いは、この世の国や民族ではなく、人に対してでもありません。
私たちの戦いは、神との関係を壊そうとする、また人との関係を壊そうとするサタン(悪魔)との霊的戦いです。神の武具(信仰、祈り、愛、平和、み言葉など)をもって、神の右の手にある救いを誇っていきたいのです。 主なる神は勝利を与えてくださるのです。

2010・4・11 説教者 杉本守
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講壇の花

2010年04月11日 | 教会案内
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主日礼拝説教要約

2010年04月04日 | 説教要約
「よみがえられた主を見て」 ルカによる福音書24章1~12節

 ハッピー・イースター!
 主イエスの復活を喜び申し上げます。全世界で復活された主イエスがほめたたえられています。なぜ、世界中でこのイースターが祝われているのでしょうか?それは、人間の最大の問題である罪と死が、主イエスの復活によって解決されたからであります。そしてそれは、信じる者にも与えられるのです。

Ⅰ 復活の預言
 主イエスは、「自らが十字架につけられ死に墓に葬られるが、三日目によみがえる」と何度も弟子達に語っています。ペテロの信仰告白の後やザアカイに出会う前にです。人類の罪と死の最大の問題に対し、主なる神は、主イエスの十字架と復活により解決と救いを与えると計画され、それをあらわしていたのです。

Ⅱ 復活の事実
 墓に葬られて三日目(日曜日)の早朝、墓に行った女性達は、墓の前にある大きな石が転がされてあり、墓の中に主イエスの体がないことに驚き途方にくれていました。そこへ神の使いがあらわれ、「なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」と語ったのです。
 事実、主イエスはよみがえり、その後、何度も弟子達にあらわれ、最後には500人以上の者達にあらわれたのです。恐れおののいていた弟子達が、復活の主イエスに出会った後、まったく変えられ、「まことに主イエスこそ救い主」であると大胆に宣教し、殉教してまで復活を証言たことにもあらわれています。

 すでにすべてにおいて勝利をおさめてくださっている主なるイエス、復活されて今も共にいてくださる主イエスに賛美をささげましょう。

2010.4.4 説教者 杉本守
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