静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年07月31日 | 説教要約

「罪をゆるす主イエス」、マタイによる福音書15章10~20節

 主イエスの名声は、全イスラエルに響き、エルサレムより宗教的な指導者達が、主イエスの言動を調査し弾圧しようとして、さまざまな言いかがりをつけ、罠をしかけてきたことが、この15章より始まります。

Ⅰ 人間の罪

 律法学者やパリサイ人達は、主イエスの弟子達を「汚れている」としました。それは、ユダヤ人の言い伝えとして、パンを食する前に手を洗わなかったからでした。彼らは衛生的な意味で非難したのではなく、宗教儀式として精神的な汚れをきよめる行為をしなかった意味として非難したのでした。主イエスの答えは、律法と言い伝えとはどちらが重んじられるべきか、彼らが律法より優先して言い伝えを重んじ律法を無視していることと、本質を見失って見えるところのみで判断していることを、父と母とを敬っているかどうかを例に出し語ったものでした。人間の心の汚れとは、外側のことではなく内側のことであり、律法学者やパリサイ人にある、神のみ心より自らの思い(言い伝え)を優先していく罪にあるのです。

Ⅱ 罪を赦し人間をきよめる主イエス

 真の神から離れ自らを神とし、自らの欲望のままに生きる罪人は、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りなどを犯し、神の律法の中心である十戒を破るのです。それは、まずは行為としてだけではなく、心の思いとしてあらわれてくるものです。心の思いとしてさぐられるならば、誰しもが罪人であり、汚れている者です。その結果、神の裁きを受け、永遠の滅びへ落とされるのみです。

 この汚れと罪、その結果なる滅びから誰が救ってくれるのでしょうか。罪に汚れきった人間の自力救済はありません。罪の汚れは自力ごときでなくなるものではありません。救い主が必要なのです。救い主イエスこそ、私たちをこの罪と罪の汚れ、そして永遠の滅びから救ってくださる方です。罪を赦し、私たちの心をきよめてくださる方なのです。罪のない主イエスの十字架は、私たち人類の罪を負ったものであり、わたしたちにゆるしを得させるために身代わりとなり、わたしたちの受けるべき裁きを受けたのであります。主イエスを救いと主信じ、罪を悔い改めるならば、誰でも罪を赦され、汚れからきよくされ、新しい人生を歩めるのです。

「そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたたちをきよめて下さる。」(第一ヨハネ1:7、9)

2011/7/31 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年07月31日 | 天のマナ

「主イエスの愛を注がれている者として」 

 

 今年も一番暑い夏、8月がやってきました。お年寄りの兄弟姉妹にとっては、主イエスを礼拝するために教会堂へ来ることが、容易ではないことを知っています。また病める兄弟姉妹にとってもそうであります。しかし、この7月も暑い中、また体調が万全でない時も、神の家族と共に礼拝するために、教会堂へ来て礼拝に励んでおられる兄弟姉妹の姿を見ます。どうしてこんなに暑い日なのに、どうして体調が十分でないのに、礼拝に励んでおられるのでしょうか。命令され律法的に強制されているからでしょうか?義務感からでしょうか?習慣化されているからでしょうか?いいえ、どれも違います。それは、兄弟姉妹が主イエスの愛を知り、救いにおいて体験し、今も、日々に、主イエスの圧倒的な愛を自らの身に注がれていることを感じておられているに違いありません。内にいただいている主イエスの愛がそうさせているのです。

 

「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ人への手紙5章5節)

2011/7/31

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講壇の花

2011年07月31日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年07月24日 | 説教要約

「教会に溢れる神の恵み」 詩篇45篇1~17節

 この詩篇は、王の結婚式の時に歌われた「愛の歌」と言われています。文字的には王と花嫁の結婚を祝福している歌ですが、霊的には王は救い主イエスを指し、花嫁は教会を指しているとみることができます。

Ⅰ 主への賛歌と祝福(2~9)

 王の姿が、2~7節に記されています。王は、雄々しく勇者であり尊厳と威厳に満ち、神から油注がれた者であることがうたわれています。まさしく救い主イエスは、真の油注がれたメシヤ(救い主)であることが、ヘブル書1章8~9節にこの6、7節の成就として記されています。

Ⅱ 教会への賛歌と祝福(10~15)

 この花嫁は、結婚の為に父と母の家を離れ、ただ王である夫に信頼し、身も心も委ねる従うことが勧められています。そして、王のもとに行く花嫁の喜びがうたわれています。まさしく、これは教会の姿であります。教会は主キリスト・イエスの花嫁であり、キリストの再臨の時にキリストの花嫁として迎え入れられるのです。私たちはこの教会に属し、主イエスのもとに行く喜びと祝福の中にあるのです。

 主イエスが来られる日まで、私たちは主イエスを信じ続け、共にこの主が満ち満ちている教会の中に身を置き、歩んでいきましょう。

2011・7・24 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2011年07月24日 | 天のマナ

 「火を通される恵み」 「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」(ロマ12:1)

 

 先週の台風が接近する中、第60回の教団夏季聖会が箱根で持たれました。「きよめ」のメッセージが、最

初の聖会から語られました。先日、祈祷会でメッセージされた同じイザヤ書6章のイザヤの召命の経験の箇

所でした。そのメッセージの中で、「賜物をいただいている者は火を通されないといけない」という言葉が心に

残りました。

 私たちは主なる神より賜物を各自いただいていて、神の奉仕のために用いています。賜物自体

は素晴らしい神からの贈り物ですが、それを用いる私たちが聖霊の火を通され、きよめられないといけないと

いうことです。そうしないと、神の賜物を用いて奉仕をすることが、自己満足や自己実現のためだったり、人

の評価を期待したりするために使われてしまうからです。このような奉仕には平安がありません。評価される

と高慢になり、評価されないと卑下するからです。

 本来、主の賜物、賜物を用いての奉仕は、自らの栄光のためではなく、神の栄光をあらわすためのものだか

らです。火を通されていきましょう。

 

2011/7/24

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講壇の花

2011年07月24日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年07月17日 | 教会だより

 「しっかりするのだ」 マタイによる福音書14章22~33節

 主イエスのこの奇跡はとてもユニークであります。湖上を歩いて舟に乗っている弟子達のもとへ行ったのであります。私たちの神は、全能のお方であり、なんと人間の考えを超えた不思議な方であります。私たちは、人間の理性の中に閉じ込められない、理解を超えた全能の神を信じることができている幸いを感謝するのです。

Ⅰ 強いられる恵み

 五つのパンと二匹の魚をもって、五千人以上の者の腹を満たした方を群集は、イスラエルの王としようとします。しかし、主イエスは、一時代の一地域の王になるためにこの世に来られたのではなく、永遠の王、全宇宙の王として永遠の救い(罪と永遠の滅びからの魂の救い)のために来られたので、群集を避けて山に退き、父なる神の前に祈ったのでした。そして弟子達もその熱狂から引き離すために、舟に強いて乗り込ませ向こう岸へ行かせました。しかし、その主イエスの言葉に従った彼らでしたが、途中で逆風に遭い、朝方まで漕ぎ悩んだのでした。祈り終えた主イエスは、漕ぎ悩む弟子達に心をとめ、湖の上を歩いて彼らに近づきました。彼らは、主イエスを幽霊だと思い恐怖の叫び声を上げたのでした。

Ⅱ 強いられる恵みを受ける

 その彼らに主イエスは、すぐに「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と声をかけなさいました。主イエスが命じられたことは、どんな困難があろうとも主イエスは責任をもって導いてくださる方です。彼らは安心をいたします。そうするとすぐにペテロが主イエスに、自分も湖の上を歩きたいと願い出ます。主イエスは、「来なさい」と彼に言い、主イエスはペテロを湖の上に歩き出させます。彼も主イエスを見ているうちは歩けたのですが、主イエスから目を離し風を見たときに、心の中で疑いが起こり、その時に彼は沈んでしまします。おぼれかけている彼を主イエスは、すぐに手を伸ばし引き上げ、舟に乗り込みます。そうすると波風はおさまったのです。

 時々私たちも、強いられるような境遇に置かれますが、主イエスに従っているなら、必ず主イエスは助けてくださり導いてくださり、私たちはそこでしか得られない神の恵みを体験していくのです。

2011・7・17 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2011年07月17日 | 天のマナ

「あなたは尊い存在」  「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:4 

 

一人の女の子が、お母さんと一緒に海辺の砂浜で散歩をしていました。波打ち際を歩きながら、時々その女の子が立ち止まり貝を拾います。なかなかきれいな貝が見つかりませんでしたが、彼女は一枚の貝を見つけとても気に入りになりました。そしてそれを服で拭き砂を落として大事そうに見つめ、また自慢そうな笑顔で「宝の貝を見つけた」と言って母親に見せました。母親は、娘のあまりの喜びにどんな素敵な貝を見つけたかと思って見てみますと、他の貝とそんなに変わらない貝でありました。彼女は、その大切な貝をお母さんに預け、他の遊びに夢中になり、もう帰る時間になりました。その時、彼女はお母さんにさっきの貝を返してもらう為に手を出しましたが、お母さんはどこかへ落としてしまったのでした。探しましたが見つかりません。お母さんは見た目がその貝と変わらない他の貝で代用しようとしましたが、彼女は納得しませんでした。あの貝は彼女にとっては代わりの効かない特別な尊い貝だったのです。

 主なる神にとってあなたは尊い存在なのです。いつも主の御手の中にあり輝かせていただきましょう。

2011/7/17

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講壇の花

2011年07月17日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年07月10日 | 説教要約

「勝利を与える神」詩篇44篇1~8節

 この詩篇は、国民的国家的存亡の危機の中で、神が過去の先祖達の危機に対してどのように扱われたかを、救いの歴史の信仰に基づいて振り、今ここで神の前に叫び求めているものです。

Ⅰ 危険の中での祈り

 国民的国家的な存亡の危機とは、ヒゼキヤ時代のセナケリブの来襲(Ⅱ列王18章)ではないだろうかといわれています。まず詩人は、この危機の中で、真の神が神の民をどのように導いてきたかを、出エジプトから約束の地までの歴史を通して語り、ただただ真の神のみ業であると神を崇め、自らが信じる方もまさしくその神であることを表明します。しかし、そう信じ表明しつつも9節からは、主なる神は顔をそむけられたのではないか、眠ってしまったのではないかと述べています。それは、今の状況があまりにも危機的なものだったからです。

Ⅱ 危機の中での信仰

 祈りはそれで終わってしまったのでしょうか。いいえ、17節にはなお厳しい中において真の神を見上げ、神の契約を掲げて神に寄り頼んでいます。26節にも手をあげてわれらをお助けください、贖ってくださいとあるのです。詩篇121篇3節「あなたを守る者はまどろむことがない」とあるように、真の神はどんな危機的の中にもみわざをなし、神の民を守るのです。

 ですから、私たちも神の前に今、手をあげてみ言葉に立って祈りましょう。主なる神は必ず勝利を下さるのです(ヨハネ16章33節)

 2011/7/10 説教者 杉本守

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