静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2009年07月26日 | 説教要約
「人は神の言で生きる」マタイによる福音書4章1~11節

 自らが救い主であることを公にあらわしなされた主イエスは、最初に荒野においてサタンの誘惑にあわれました。そして、み言によって誘惑に勝利し、サタンを退けたのでした。この記事より、主のメッセージをいただきます。

Ⅰ 誘惑にあう
 サタンの誘惑の目的は、神から人を離し、罪に陥れることであります。その方法は、人間の欲(目の欲、肉の欲、所有の欲)に働きかけます。最初の人アダムとエバもこの欲に働きかけられ負けてしまいました。
 主イエスが荒野で同じような誘惑を受けられたことは、人類の失敗の起源に遡って、勝利されることによって踏みなおされたのであります。

Ⅱ 誘惑に勝利する
 どうやって主イエスは、サタンの誘惑に勝利されたのでしょうか。それは、祈りとみ言による勝利でした。申命記の三つのみ言により、御霊の剣すなわち神の言をとったのでした。主イエスの勝利は、主イエスを信じる者に与えられる勝利であります。

 私達も日々、誘惑にあいます。サタンに機会を与えずに、み言と賛美と祈りを常に身に保ち、主イエスの勝利を私達も体験させていただきましょう。主イエスは勝利を与えてくださる方です。

2009/7/26 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年07月26日 | 天のマナ
「夏季聖会の恵み」 

 お祈りを感謝いたします。11名が箱根で持たれた夏季聖会に行ってきました。初日の青年聖会(130名)、夜の聖会、二日目午前の聖会(220名)、午後の聖会、夜の恵みの分かち合い、三日目午前の聖会のいずれも主のみ言葉と恵みに溢れていました。霊的な恵みの高嶺へ登らせていただきました。

 私は特に青年聖会のメッセージで、主の恵みをいただきました。青年マルコが、どのような生涯を送ったのが語られました。祈られて育ったマルコ、高ぶったマルコ、そして砕かれ福音書を書く者とされたマルコの姿を通して、自らの姿を探られ示されたのでありました。

 それは、祈られて育てられ、今も聖徒の皆様の祈りに支えられて歩んでいる私であるのに、また神の憐れみとお恵みのゆえに救われた私であるのに、いつの間にか高慢になり、さまざまな事を批評し裁いてしまっている姿でした。自らの罪深さを認める私に、主は「彼はわたしの務めのために役立つから」Ⅱテモテ4:11と語ってくださり、触れてくださったのです。

 私は、高慢の口と内とをきよめてくださいと悔い改めと願いをささげました。主イエスはなお深く触れてくださいました。これからの歩みの中で、実を結ばしていただきたく願います。

2009/7/26
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講壇の花

2009年07月26日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年07月19日 | 説教要約
「私の声を聴かれる神」 詩篇5:1~12

 一日の初めを皆様はどのように歩み出しているでしょうか?
 この詩篇は朝の詩篇と呼ばれています。

Ⅰ 神に呼ばわる者
 この著者は、神を知る者にとって、いかに神との交わりが麗しいかを深く自覚し毎朝体験しています。朝ごとに主と交わるために、心の場所を備えています。また、主を待ち望んでいます。御霊の火は、このように備え待ち望む者の魂に燃え続けるのです。備えをして呼び求めます。

Ⅱ 祈りを聴き応える神
 神は、語ってくださる共に聴いてくださるのです。
 「神の義をもって悪を裁き、同時に私を導き、私の前にあなたの道を真っ直ぐにしてください」と祈る著者の求めに、神は聴き、著者に「神に寄り頼む者を救う」と確信させるこたえを与えるのです。

 私達も朝毎に、神の前に出て神に呼ばわり、神に聴き一日を始めていきしょう。豊かな交わりに生かされましょう。

2009/7/19 説教者 杉本守
コメント (2)
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天のマナ

2009年07月19日 | 天のマナ
「命と器」 「御子を持つ者はいのちを持ち」(第一ヨハネ5章12節)

 私達クリスチャンは、二つの誕生日をもっています。肉の誕生日と霊の誕生日です。肉の誕生は母の胎から産まれた日、霊の誕生日とは主イエスを信じた日です。
 主なる神は、母の胎内で私達に命を与えられると同時に、その命を保たせるために器なる肉体を与えてくださいました。命のない肉体は生きていなく、肉体のない命は生きていけません。命と命の器なる肉体の両方があって、生きて行けるのです。
 霊のことについても同じく言えます。私達は主イエスを救い主と信じた時、霊的な命(新生、神との霊的交わりの回復)をいただきました。主イエスの命が、今も流れ込んできています。この霊的な命をも保たせるためには器が必要であります。主イエスはそれをも私達に与えてくださっています。
 霊の器とは、信仰告白であり、洗礼を受け教会に加わり続けることであり、礼拝をささげ聖餐の恵みにあずかり続けることです。この故に、霊的にも生き生きと歩むことができるのです。

 命のない形式ばかりの器だけにならず、器がなく霊的命を保てない者にもならず、主イエスのあふれる命を豊かな器で受け、歩んでいきたいのです。

2009・7・19
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講壇の花

2009年07月19日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年07月12日 | 説教要約
「神の心にかなう方」 マタイによる福音書3章13~17節

 主イエスの洗礼の記事から、主のメッセージをいただきましょう。

Ⅰ 洗礼の意味
 私達における洗礼は、「自らの罪を認め悔い改め、主イエスを救い主と信じ告白した者が、キリストの体なる教会に連なるために、自らの信仰を公にあらわす」という意味があります。神に背いてきた歩みから、神に従う歩みへと変えられた救いの経験を洗礼は表しています。この洗礼は、主イエスが命じられたものであり、弱く変わりやすい私達のために備えられた恵みの礼典の一つであります。
 しかし、主イエスの洗礼は、私達の洗礼とは意味が違います。主イエスは罪のない方であります。救い主としてこの世界にきてくださった主イエスの洗礼は、メシア(救い主キリスト)としての自らを公にあらわす、公生涯へのスタートでありました。

Ⅱ 主イエスの洗礼
 主イエスが洗礼を受けた時、二つのことが起こりました。一つは、天からの声です。「これはわたしの愛する子」は、詩篇2篇真の王としてのメシヤが語られている箇所からの引用であり、「わたしの心にかなう者」は、イザヤ書42章受難の僕としてのメシヤが語られている箇所からの引用です。つまり、救い主イエスは、真の王でありながら、十字架という受難を受ける救い主として歩むことが父なる神からの宣言だったのです。主イエスは、自らを聖別し献身をもってこれに応えました。
 二つ目は、聖霊の注ぎです。この使命を主イエスが果たせるように、聖霊が注がれたのでありました。

 私達の救いのために自らを聖別し献身し進み出でてくださった主イエスに感謝すると共に、先に救われている私達も、聖別をいただき、献身をもって主に仕えていきたいのです。

2009/7/12 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年07月12日 | 天のマナ
「セル・グループ(恵みと重荷の分かち合い)の恵み」

 先週は、4箇所で4つのセル・グループ(シメオン、ヨシュア、ハンナ、グレジャム)が持たれました。それぞれに特徴のあるセル・グループで嬉しく思っています。なかなか主日礼拝の後では時間をとって交われませんが、平日に集ると時間がとれ、恵みと重荷の分かち合いをし、共に祈る恵みを体験できます。

 共同体で主と交わる礼拝、個人で主と交わるデボーション、グループの中に、兄弟姉妹の間におられる主と交わるセル・グループ、どれも私達の信仰を成長させ成熟させるに欠かせない時であります。

 9日(木)の夜に持たれたグレジャムには、高校生~大学生が21名集り、遠方より5人の大学生のゲストが来てくださり、賛美を導いて下さいました。食事、賛美、ゲーム、救いの証し、「神」というテーマでのメッセージ、テーマに即して4グループでの分かち合い、そして祈り。半分はこれからクリスチャンになる学生達であり、伝道を兼ねた幸いなセル・グループでした。

 なかなかセル・グループに集えない方もいらっしゃると思いますが、一回でも二回でも、時間のゆるされる時に是非お集いください。
 
                     マタイによる福音書18章20節
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集っている所には、わたしもその中にいるのである。」

2009/7/12
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講壇の花

2009年07月12日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年07月05日 | 説教要約
「み顔の光を照らして下さい」(詩篇4篇1~8節)

 息子アブサロムの反逆にて、王座を落ちて行ったダビデが最初の危機を乗り越えた時に歌った詩であり、詩篇3篇よりも数日後の詩であります。

Ⅰ 主を仰ぐ者の悩み
 息子アブサロムとダビデの側近達は、ダビデに反逆しました。彼らは、ダビデが油注がれ王として神に召されていることをないがしろにし、ダビデをはずかしめ、アブサロムの空しい言葉を愛し、アブサロムの偽りをしたい求めたのでありました。ダビデの苦悩をここにみます。

Ⅱ 主を仰ぐ者の呼ばわり
 この時、ダビデは主の前に出て呼ばわります。不正に対して怒っても罪(うらみ、報復など)を犯さず、静まって、神の前に正しい生き方をして、主に寄り頼む姿勢を彼はもっていました。
 呼ばわることは、神との人格的な交わりです。そして、ダビデとダビデの従者にみ顔の光を照らして下さいと祈ったのです。

Ⅲ 主を仰ぐ者への主の応え
 神は、そういうダビデをくつろがせ、心に喜びと平安を与えたのでした。さらに、王座へ戻すのでした。

 私達も苦悩の時がありますが、主に呼ばわり、神によってくつろがせていただき、ますます主の栄光をあらわさせていただきましょう。

2009/7/5 説教者 杉本 守
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