静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年06月07日 | 説教要約
「私の助けは天地を造られた神から来る」詩編121:1~8

 「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(2)

 この詩篇は、表題にもあるように都もうで(上り)の詩であります。エルサレムから離れて住んでいる神の民が、エルサレムの都、神殿の礼拝を慕いながら、のぼっていく時に歌われたものでありましょう。

Ⅰ 困難の中で
 何日も何週間もの旅の中で、荒野の中や盗賊の危機を通りながら、神の都を慕い旅を続けます。その中で、時に「わたしの助けはどこにあるのか」と連なる山々に目を上げるのです。

Ⅱ 神の助け
 誰が、彼らを励まし助けるのでしょうか。都もうでを共にしている家族や友人でしょうか。いいえ、そうではありません。彼らが信じている天地創造の神であります。この神は、眠ることもなく、うとうととまどろむこともない方で、常に共にいてくださり、太陽(直射日光は熱射病の原因)や当時の人たちが病を引き起こすと考えていた月の青い光から守ってくださる方であります。信仰告白されるこの神に支えられ、彼らはエルサレムまで守られ着き、礼拝をささるのです。

 彼らを守られた神は、永遠の神の都、天の新しいエルサレム、神の国を目指し地上での旅を続ける私たちも守ってくださるのです。

2015/6/7 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年05月24日 | 説教要約
「教会のかしらであるキリスト」エペソ1章15~23節

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(23)

 本日は、ペンテコステの礼拝です。聖霊なる神が降り、教会がスタートした日です。

Ⅰ 教会とは
 教会とは、「神によって召しだされた者の集まり(共同体)」であるということができます。また、教会は、「見えない教会」であり「見える教会」であるというふうにもいわれます。「見えない教会」とは、使徒信条でも告白している「普遍的な公同の教会」です。「普遍的」とは、地理的・歴史的制約をこえた広がりをもつことを示しています。時代や国をこえ、教団教派をこえ、制度や組織をこえ永遠の共同体であります。イエスを救い主と信じて救われた者たちすべてが属しているものであります。「見える教会」とは、地上の地域教会であり、制度や組織があるものであります。私たちは日本ホーリネス教団静岡教会に導かれ属しています。

Ⅱ 教会の主
 この教会の主は誰でしょうか。父なる神は、御子キリストに、この世においても来るべき世においても、永遠にすべての支配、権威、権力、権勢を与えられました。このすべてのもの主権者なるキリストが教会のかしらであります。ですから、この世のどんな勢力をも恐れる必要はありません。迫害の歴史の中にあっても、教会は活力を失わずかえって力を増し拡大しています。まさしく教会は、あらゆるものをすべてによって満たすことができるキリストが聖霊によって満ち満ちている共同体なのであります。

 ですから、聖霊に満たされて教会を建てあげていきましょう。

 2015.5.24 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年05月10日 | 説教要約
「神のあふれる祝福を受ける」 エペソ1章1~14節

「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」(13)

 エペソの教会は、パウロが第二伝道旅行の際に、二年以上も滞在し、救われるものが起こされ教会がたてあげられました。後に(AD61)、パウロが獄中からエペソにいるクリスチャンに記した手紙であります。1~3章は「救いとは何か、教会とは何か」という教理的な部分で、4~6章は「いかにキリスト者として生き、働き、神の栄光をあらわすか」との実際的な部分が記されています。

Ⅰ 神の奥義なるご計画の内容
 ①いつ? 神の計画では、天地が造られる前から私たちを選んでくださっていて、神は時の満ちるに及んで実現されているのです。
 ②だれに?神の計画は、わたしたちを、わたしたちにです
 ③なに? 神の計画は、神の祝福であり、神の選びであり、神の子たる身分を授けることであり、罪過の赦しであります。

Ⅱ 神の奥義なるご計画の遂行
 ①どのように?誰によって?
  神は神の計画をキリストによってなされています。「神はキリストにあって」と何度も記しています。
 ②何のために?
  神の計画は、天地のすべてをことごとく、キリストにあって一つに帰せしめ(集められ)キリストの愛のもとに置くためであります。

 これらのことは何によって保証されるのでしょうか。それは聖霊なる神の証印であります。イエス・キリストを信じた者は、神のものとなり、神の国を引き継ぐのです。なんという神の奥義なる祝福の計画でしょうか。その中に与り続けましょう。

2015/5/10 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年05月03日 | 説教要約
「神のみ言葉はわたしの道の光です」詩篇119篇105~112節

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(105)

 ヘブル語の「ヌン」で始まるそれぞれの節です。

Ⅰ 神のみ言葉
 神のみ言葉とは、創世記を見ますとそれは創造の言葉です。神の言葉が一言発せられるとそれは、創造がなされ出来事を起こすのです。神の言葉には力があり命があります。

Ⅱ わたしの道の光
 「足」は、ステップであり日々の歩みであります。「道」は生涯であります。詩人は、ひどく悩んでいました(107)。それは、常にいのちの危機にさらされている(109)ようであり、悪しき者たちがわなをもうけている(110)ものでした。どのようにどちらを歩んでよいかわからないような時に、神のみ言葉が足元を照らし、行き先を導くのでありました。神の言葉が彼の歩みに介入してきたのです。彼は、この神の言葉と共に歩むことを決めます。誓い行う、忘れない、心の喜びとしたのです。

 日々の生活の中でどんな時も、御言葉というランプを掲げて、人生という旅路を進んでまいりましょう。その光は、確実に神の御心とみ国へと導くからです。

2015/5/3 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年04月26日 | 説教要約
「苦しみさえも益にかわる」詩編119編105~112節

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(71)

 119篇のテーマは、「神の言葉」です。神のみことばを愛し信頼することを言い表す内容となっています。そこでまず、詩人は、神のことばに従うことが私たちの人生において祝福であると語っています。この箇所は、ヘブル語の「テス」から始まる8節であります。

Ⅰ 迷っていた表面的な時代
 私たちはイエス・キリストを信じて救われる前までは、表面的な自分でありました。特に問題や苦しみもなく、そこそこやっていけると思っていました。しかし、心の奥底では、何かが欠けているという漠然とした不安、突き抜けない自分、表面の楽しみだけでは満たされない心の叫びがあり、人生はこのままでいいのかと迷っていました。この詩人もそうでした。

Ⅱ 見出した奥深い時代
 しかし、ある時、そのような表面的な時代から抜け出すことができたのです。それは苦しみがきっかけでした。この詩人にとっては、高ぶる者たちの偽りが詩人を覆った(69,70)ことでした。この苦しみが詩人を神に立ち返らせる機会となりました。迷いから解放され、確かな奥深い神のご計画を知り、神の恵みを体験していったのです。ですから、この詩人は、苦しみにあったことは、しあわせでしたということができたのです。私たちもそうであります。苦しみは嫌ですが、苦しみを通して神に近づき、神を信じ心が満たされ、人間本来の生き方を歩むことができているのです。

 苦しみは、神に向かわせるものであります。しかし苦しみだけに目を奪われることがないようにしましょう。その背後にある主と主のご計画に目を留め、さらに主の恵みを受け、さいわいな者とされましょう。

2015/4/26 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年03月22日 | 説教要約
「主イエスにより頼む幸い」 詩篇118篇1~29節

 国民的祭日(過ぎ越しの祭り)にあたり、神殿への厳かな行列にて歌うために用いられた詩であり、バビロンからの解放、神殿も再建(BC518)後、礼拝者が神殿の門から、神殿の中庭、祭壇の前にまで進む流れが描写されていると言われています。神殿聖歌隊のかけ声と会衆の応答が繰り返されています。

Ⅰ 苦しみの中で主に寄り頼む者
 すべての国々が私を取り囲んだ(10)、はちのように(12)など、取り囲んだと4回、八方塞り、敵対者の攻撃を受けた神殿再建時の苦労が、背後にあります。この中で、主を呼び求め、人や君主より頼まず主に寄り頼みました。

Ⅱ 苦しみから救われる神
 主なる神は、この叫びに応えられ、広いところに置かれたのであります。それは、囲まれた狭い場から安全な場に導かれたのであります。どのような苦しの中でも、主なる神が味方なであるなら、誰が敵し得ようか(ローマ8:31)。主なる神は、神殿と城壁を再建されるのです。
 22~23節に、バビロンからの帰還民が、瓦礫の中から神殿を再建した出来事は、やがて、神が本当の神殿を完成されることの“予表”でもあります。神は本当の神殿を完成なさろうとなさっています。それは石で出来た神殿ではなく、神を礼拝する人々による神殿です。その神殿建築のために、神はイエス・キリストをおつかわしになりました。

 救いをなされる神に寄り頼む時、私たちはどんな時にも幸を得るのです。このことを経験している者たちは、神に感謝し、神をほめたたえるましょう。

2015/3/22 




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主日礼拝説教要約

2015年03月01日 | 説教要約
「万事は神に告げられたとおりに成る」 使徒行伝27章13~44節

 ローマに向けて出発した船は、クレネ島のラサヤ港に着きます。

Ⅰ 己を優先する失敗
 航海に危険な季節となり、パウロは三度難船した経験から地中海の恐ろしさを知っていて、港に留まるように述べたが、百卒長は、船主や船長の意見に従い、ピニクス港へ向かいました。世の中の常識や専門家の経験に聞き、神に聞こうとしない、己を優先することを選びました。その結果、北風の暴風に遭い難破し、幾日もの間太陽も星も見えず方向も自分の位置もわからなくなり、船具や積み荷も捨て助かる最後の望みもなくなったのです。

Ⅱ 失敗の中でもあらわされる神のあわれみ
 このような己を優先した結果の失敗も、神はパウロを用いてあわれみ、神の栄光に変えるののであります。パウロは神の前に出て聞き、必ず神の言葉のとおり、ローマに立つことを確信し、周りの者たちに「元気を出しなさい」と励ましました。船は陸に近づき、浅瀬に乗り上げ、全員のものは守られ島に上陸したのでした。

 クリスチャンは、どんな状況でも神の約束を信じ、隣人を励まし最善に生きる役を受けているのであります。

2015/3/1 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年02月22日 | 説教要約
「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」 詩篇116篇1~19節

「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(15)

 神の救いを経験した者の感謝が詠われています。前半は、死に直面する苦しみから救われた感謝を、後半は、救って下さった神に従っていく思いを詠っています。
 本日は、15節の御言葉を主に取り上げたいます。

Ⅰ 主の聖徒たちの死
 「聖徒」と聞きますと、皆から尊敬を受けている方や信仰的功績を残した方と思ってしましますが、神を愛する者、神を愛される者こそ、主の聖徒であります。新共同訳では、「主の慈しみに生きる者」と訳されています。主の慈しみの中にあって、神に愛され、そして神を愛して日々生きているすべての人を意味します。その者達も、肉体の死が来ます。体は土に霊は神に帰るのです。

Ⅱ 主の聖徒たちの死が尊い理由
 では、なぜその者たちの死は尊いのでしょうか。ここでは「そのみ前(主のみ前)」、「主の目に」(新改訳)はとあります。人の目には、功績を残せた者が尊いということでしょう。しかし、人の目は一時で一面しか見えません。しかし、神の目には、その人のすべてが見られています。主の聖徒の死は、主の目には、使命を果たし終えた姿として、永遠の神の国に凱旋する姿として映っているのです。だから尊いのです。私たちも主の目を通してみさせていただきたいのです。

 私たちも主を愛し主に愛されている主の聖徒として、この地上での使命を全うし、神の国へ凱旋させていただきましょう。

2015・2・22 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年02月15日 | 説教要約
 「わたしが神に祈るのは」(使徒行伝26章24~32節)

 「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけではなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみなわたしのようになって下さることです。」(29)

 ローマの総督がフェストに交代し、パウロはカイサルに上訴いたします。そんな時にヘロデ・アグリッパ王二世の前で、パウロは自らの救いの証しを含めて、福音を語ります。

Ⅰ 福音を語る備え
 パウロは、いついかなる時も、誰の前であっても、総督や議会、そして王の前であっても、いつも福音を語る準備をしていました。まさしく、ギデオンの300人のように、備えていたのです。そして、自らの救いの証を、救われる前、救われた時、救われた後と3ポイントに明快に語っています。

Ⅱ 祈りによる宣教
 福音を語られる時、それに聞く者は御言葉に迫られ、決断を求められます。アグリッパ王は、この救いの時、決断を避けることによって、逃してしまいました。残念なことです。
 一方パウロの祈りの中での願いは、上記の御言葉にあるように、自らの解放ではなく、福音を伝え一人でも多くの者がイエスによって救われるようにとの使命を果たすことでした。


 私たちの祈り、願いは何でありますでしょうか。己のことでしょうか? パウロのようにいつも救霊のために祈り、いつでも福音を語れる備えをさせていただきましょう。神は備えている者に必ずチャンスを与えてくださるからです。

2015/2/15 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年02月08日 | 説教要約
 「天地を造られた神の恵み」 詩篇115篇1~18節 

「天地を造られた主によって、あなたがたが恵まれるように。」(5)

 この詩篇は、真の神とは偶像の神ではなく、天地を造られた神であることを告白しているものです。
人間は目に見える世界に引き寄せられていきます。そのゆえに一番大切なものを見失うのです。
己の願いや欲をかなえるために考え出された神々を、人は金や銀や白金で見える像にしたて刻み込みます。
眩いばかりの偶像です。しかし、どんなに大きくても眩くても、人の手で造られた偶像は、語れず、見ることができず、聞くこともできず、歩くこともできないのです。命がないかたちだけの飾り物だからです。それらの偶像の神々を造り信頼する者らは、偶像に等しくなるとあります。
 しかし、聖書の神は、天地を造られた神であり、神を恐れる者を守られ恵まれる生きた神であります。そして、神ご自身のみ心を行われています。この真の神を信じる者は、この神に似せられてくるのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」(Ⅱコリント3章18節)のです。

2015・2・8 説教者 杉本守

  
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