静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年12月30日 | 説教要約

「主に信頼する者は幸い」 詩篇84篇1~12節

 本日は、年末感謝礼拝です。この一年、主は私達をどのように導いてくださったのでしょうか。2012年の新年礼拝で、私達は一年のみ言葉をいただいき、そのみ言葉を信じて歩んできました。それは、「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいでです」(12)でした。

 この一年を振り返ってみると、一人の方が洗礼を受けられ神の家族に加わり、それは何よりも喜びの時でありました。またこの一年、愛する神の家族のうちの二人を天に送り、涙の谷を通ることもありました。けれどもその涙の谷を通過できたのは、私達の心が天に、永遠のみ国に向けられていたことであり、主に信頼することができ、主の助けを受けたからであります。本当に幸いな者として歩むことができた一年でした。

 来年もこの主イエスに信頼して歩んで幸いな者とされましょう。

2012/12/30 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年12月30日 | 天のマナ

「日々の生活の中で信仰があらわれる」 

 先週の牧師休暇の時に、妻と二人でセノバに「レ・ミゼラブル」という映画を観に行きました。ミュージカル調の長編大作映画でした。「激動するフランスの歴史の中で、そこに生きる人間の深いさまざまな心の葛藤をはじめ、神への叫び、神への求め、神の赦し、そして人を変える神のわざ、変えられた人の歩み」と凝縮されている内容で、メッセージ性のある映画でした。鑑賞者たちは、映画の途中から涙をし、映画が終わった時には拍手が会場に響きました。私も多くの映画を鑑賞してきましたが、ベストといっても良い内容に感動し、もう一度観たいと思いました。この年末年始、この映画の鑑賞をお勧めいたします。

 また、「ソウルサーファー」という映画もお勧めいたします。こちらの映画上演は終わりましたが、DVDでレンタルされています。クリスチャンの少女が、サメに襲われ片腕をとられる試練の中で、神を見上げて、その試練を乗り越え、神の栄光をあらわす内容です。

 「義人は信仰によって生きる」(ローマ人への手紙1章17節)

2012・12・30

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天のマナ

2012年12月23日 | 天のマナ

「キリストを見る」 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

 ラジオ牧師で有名な羽鳥明先生のお父さんのお話です。

 「私の父は二十六歳の時、突然、山の町の小学校の校長に任命されました。うれしくもありましたが、着ていくフロックコートも、はいていく靴もない無一文の時代でした。そこへ、町でふとん屋をしている裕福な伯父がお祝いに来てくれましたが、あいさつだけしてそのまま帰ってしまいました。父はがっかりしたそうです。ところが、しばらくして、ボロ靴をはいて外出しようと思った時、靴の中に何か入っているのに気がつきました。引き出してみると、それは伯父がこっそり置いていった百円だったそうです。百円あれば家が一軒建った時代の話です。父は男泣きに泣いたそうです。その百円ほど。伯父の心をはっきり父に伝えたものはなかったでしょう。イエス・キリストはこの世に来て、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて、私たちの罪をゆるし、神の愛のふところに戻すために死んで下さいました。神とイエス・キリストは別ではありません。イエス・キリストのことば、品性、愛の行い、よみがえりをじっくり見つめる時、生きた、本当のあなたの神がわかります。」(羽鳥明著「みことばの泉」より)

2012/12/23

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主日礼拝説教要約

2012年12月16日 | 説教要約

「救い主を喜ぶ」 ルカによる福音書2章8~20節

 第三アドベントの礼拝です。神が人となられるという驚くべきことが実現しました。

Ⅰ 救い主を求め見出した者たち

 ベツレヘムの近郊に羊を飼う羊飼い達がいました。羊飼い達は仕事の性質上、律法を守れず、また人々から見下げられ、裁判でも証言することが許されず、冷遇されていた人達でした。人々が見る見方とは違い、その羊飼い達にあらわみの目をとめていた神は、その羊飼い達に最初に救い主の降誕が告げられ、救い主を一番最初に拝することを神は望み許し与えているのであります。また、特に彼らは、エルサレムの神殿でささげられる羊を飼っていたのではないかと言われます。「世の罪を取り除く神の小羊」である主イエスの降誕により、もう羊はささげられなくてよいという意味も含められて告げられたのではないでしょうか。

Ⅱ 救い主を拝し喜んだ者たち

 告知を受けた羊飼い達は、すぐに救い主を拝しにでかけたのです。そして捜し当て拝し、神の言葉の成就を見、喜び、体験し神をほめたたえながら帰っていきました。

 神は、あなたに目をとめ、この救い主の降誕を知らせたいと語られ招かれているのです。救い主イエスを受け入れる時、拝する時、私達人間の内に本当の喜びがわきあがるのです。

2012/12/16 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年12月16日 | 天のマナ

 「主の言葉と主の同労者に見る希望」 「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ1:5)

 会堂返済もあと3年3ヶ月となりました。だからといって楽観しているのではなく、引き続き厳しい状況の只中にあります。また第三礼拝の出席者も減少傾向にあります。若い世代がなかなか増えていきません。この厳しい状況を回避するのは簡単です。しかし、この時こそ踏みとどまる勇気、それが真実というものです。この時に何をなしたか以上に、どうあったかが問われるのではないでしょうか。わたしはこの時に、共にあり耐え忍んでくれている兄姉を喜び、敬意と感謝をあらわしたいです。重荷を共に負い続けてくれている兄姉こそ真の同労者であります。共に霊の戦いを戦い続けてくれている信仰の戦友であります。

 この先に、必ず希望があります。み言葉がそう語るからであります。将来の者達は、今の私達の勇気と忍耐と踏みとどまりに感謝するに違いありません。この厳しさを乗り越えた時、自分の使命を成し終えた時、教会も自分も次の段階へと進むのです。しかし、今はあと3年、今の使命を果たす時であります。

 2012・12・16

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主日礼拝説教要約

2012年12月09日 | 説教要約

「救い主を迎える」 ル化による福音書2章1~7節

 歴史上の出来事であるクリスマス、救い主の降誕の記事であります。人口調査は、人口を把握し課税台帳を作成し、税金(人頭税)を徴収するためであったと言われます。また、徴兵のためであったともいわれます。

Ⅰ 人知を超えた神のわざ

 預言された神の言葉の成就として真実な神は、神の独り子であるイエスを救い主としてこの世界に送りなさいました。神が人となられるという受肉も驚くべきことであり、またその方法、処女降誕も驚くべきことであり、人知を遥かに超えています。人間の想定外は、神の知恵の深さなのであります。

Ⅱ 人知を超えた神の恵み

 救い主を待ち望んでいた人々はたくさんいましたが、救い主を迎え拝することが出来た人々は少しでありました。迎えられなかった人たちは、救い主をお迎えするスペースを空けていなかったのです。日常の忙しさ、自らのプライドへの固執が邪魔をしたのです。しかし、救い主を迎えた羊飼いや博士達は、謙り神の言葉を受け入れすぐに行動したのです。「私達は自分の生活の中で、主のためにどれほどの場所を生み出しているか」が常に問われるのです。場所を空けていないと神の恵みは、満ちることができません。礼拝、デボーション、奉仕などどうでしょうか。

 主イエスを迎え入れるスペースをあけて、救い主を今日も迎えましょう。

 2012/12/9 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年12月09日 | 天のマナ

「クリスマスの鐘」という絵本を読んだことがあります。

 昔々、アメリカのある町に大きな教会がありました。高い塔があり、立派な鐘がつるされていましたが、鐘の音を聞いた人はありませんでした。「今年のクリスマスこそは、あの鐘が鳴る音が聞けるかなあ?」と町の人たちは期待していました。さて、この町のはずれの小さな村に、ペドロという男の子と弟がいました。二人ともにぎやかなクリスマスを楽しみに教会へ向かっていました。町の入り口に着いた時、二人は女の人が倒れているのを見つけました。このままほっておいては死んでしまうので、ペドロはポケットから銀貨を取り出すと、弟に差し出し、「一人で教会へ行って神様にささげなさい」と言いました。教会にはたくさんの人が来ていて、素晴らしい贈り物をして、鐘を鳴らそうとしていましたが、鐘は鳴りません。最後に王様が、金の冠をささげましたが、それでも鳴りません。人々があきらめた時、鐘が鳴り響いたのです。誰が鳴らしたのかと皆が振り向くと、ペドロの弟がはずかしそうに立っていました。

2012/12/9

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講壇の花

2012年12月09日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年12月02日 | 説教要約

「救い主を迎えたマリヤ」 ルカによる福音書1章26~38節

 本日からアドベント(待降節)に入りました。クリスマスメッセージを語らせていただきます。詩篇とマタイによる福音書は来年となります。  

Ⅰ 神の偉大なわざ
  神がなされるわざはいつも偉大で人間の想像を遥かに越えるものであります。神が救い主をこの世界に送られる時もそれはユニークでありました。両親のもと、父と母の人間的な営みではなく、聖霊なる神が、処女マリヤの胎に子なる神救い主イエスを宿らせるというものでありました。全くもってユニークであり、神のみわざ以外にありません。神の使いの告知は、処女マリヤが身ごもって男の子を産むこと、イエス(主は救い)と名づけよ、その子は救い主であるというものでした。しかし、マリヤは非常に驚き戸惑い恐れます。どうして処女である自分が男の子を身ごもれるのか、名前もイエスをと名づけること、その子が神の子であり救い主であるということ、受け入れがたいものでした。世界中の誰よりも、マリヤ本人が受け入れることができない内容であったからです。

 信じ従う者
 けれども、マリヤはその数十秒後には、このことを信じ受け入れる告白をしています。どうしてでしょうか?この出来事の出所は神であることを知り、その神がなされていること、マリヤが信じていた神は全能の神であるからでありました。聖霊なる神により特別な方法をもって、神は救い主を送りなさったことを受け留めたのでありました。マリヤは、「神にはなんでもできないことがない」との神の言葉に立ったのでした。わたしは、「主のはしため(僕)です。お言葉通りこの身になりますように」との言葉に、彼女の信仰があふれ出ています。確信と平安に満たされた彼女は、救い主を送ってくだった神をほめたたえ、救い主の母とされたことを喜んで賛美をささげました。

 マリヤのように信仰をいただき、主の救いをさらに受けていきたいのです。

2012/12/2 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年12月02日 | 天のマナ

「あなたの人生の原動力は?」

 久しぶりに学び会を本日の午後いたします。引き続き、「人生を導く5つの目的」(リック・ウォレン著)を朗読し、神が私達を造られた目的を知りたいと願っています。本日は第三章です。第三章のタイトルは、「あなたの人生を動かしているものは何か」であります。

 著者は、多くの人の人生が次の五つに駆り立てられていると語っています。その五つとは、「罪責感」「怒り」「恐れ」「物質主義(何かを獲得すること)」「受け入れられたいという必要」であります。しかし、キリスト者は主イエスによって、「罪責感」「怒り」「恐れ」「物質主義(何かを獲得すること)」からは解放された者であり、神にすでに受け入れられている者であります。それでは何によって、キリスト者の生きる原動力とは何でしょうか。それは、神が人を造られた目的と神の恵みによってであります。詳しくは学び会にご参加下さい。

「主よ。あなたは自分の目的をしっかりと持ち、あなたに信頼する者に揺るぎない平安をお与えになります。」(イザヤ書26:3)

2012/12/2

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