静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2017年03月26日 | 天のマナ
「霊肉共に満たすイエスの愛による福音」
 先週の教団年会にて講師が、近代のキリスト教世界会議の歴史で課題として議論されていることを取り上げ講演して下さいました。その内容は、「信仰か、行いか」「命か、体(器)か」「個人の救いか、社会の救い(変革)か」という課題です。福音派に属する私たちのホーリネス教団は、個人の魂の救いを中心に業をなしてきました。それに対してここ20年は、福音はもっと豊かであることが言われ、福音の理解が深められて、包括的な福音が語られています。つまり、福音は個人の救いにとどまらず、社会をも変えていくのであるということで、「個人の魂の救いか、社会の変革か」ではないということです。地上で歩んだイエス様は、十字架の贖いによって罪を赦し魂の永遠の救いを与えて下さったわけですが、それだけではなく、悲しめる者に寄り添い慰め、病む者を癒し、悪霊に捕われている者を解放し、空腹の群衆に五つのパンと二匹の魚を用いて満たし、ブドウ酒が足りなければ最上のブドウ酒を用意されました。まさしくイエス様の愛は、豊かで永遠の命を与えると共に、地上での歩みにも溢れています。イエスの愛をいただき、福音の豊かさを経験していきましょう。(ヨハネ15:12)
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天のマナ

2017年03月19日 | 天のマナ
 「グレース旅行の恵み②(長崎平和記念公園、長崎原爆資料館を訪ねて)」
 長崎グレース旅行の三日目の午後に、長崎平和記念公園と長崎原爆資料館を訪ねました。原爆による被害・・・人間はどこまで残虐になれるのか・・・いかなる理由をつけても、原爆を始め戦争を正当化することはできないと深く感じました。それだけではありません。自らに照らし合わせるとどうでしょうか。自分には、それに関わった人たちを非難できるのか、自分はそういうものを全く持ち合わせてないと言い切れるのかと問われ探られるのです。全く言い切れることができない自分を、自分の罪深さを見い出し、認めざるを得ません。原爆を落としたり、戦争をすることはしないとしても、自分に意に沿わない人を排除しようとする同じ根(罪の根源)があるのです。これは神によって取り扱われる必要があります。きよめの恵みに与り、さらに与り続けることです。「私の内なる人をきよめ、主の御心に適い、主に喜ばれる者となりますように」と。自らの内に、日本に、世界に、キリストの平和が豊かにあることを願い祈ります。「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ローマ6:4)
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天のマナ

2017年03月12日 | 天のマナ
 「グレース旅行の恵み①(二十六聖人殉教地を訪ねて)」
 長崎で殉教した26人(子供2人を含む)のうちの一人、聖パウロ三木は、京都から長崎に連れて行かれる間、主の言葉を説教し続けた。そして、十字架にかけられ殉教していく時にも、最後の説教を次のように語った。「ここにおいでになる全ての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。わたしはルソン(フィリピン)の者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマン(平修道士)である。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に与えて下さった大いなる御恵だと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を与えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。(ルイス・フィロイス、1597年の『殉教記録』より)。            
 ステパノの言葉、聖パウロ三木の言葉、それはイエス様の十字架上の言葉が、時代を越え彼らの告白となっている。それは、今も生きておられるイエス様ご自身が彼らの中におり、キリストの平和があるということであるに違いない。
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天のマナ

2017年03月05日 | 天のマナ
「キリスト者の完全(きよめ)」
 神の絶対的完全と私たちのキリスト者の完全とは異なります。神の絶対的完全はすべての事において、非の打ちどころのないものです。私たちのキリスト者の完全は、成長・成熟していく完全であります。次のように例えたら受け止めやすいでしょうか。
 2年生の子供が、算数の掛け算のテストで100点をとました。彼は、2年生の算数のそのテストでは完全です。全部正解で間違いがありません。しかし、彼の完全は、これからの可能性や成長を含んだ完全です。2年生の掛け算では完全だからといって、算数全部が完全というわけではありません。3年生で習う少数や分数はまだ知らないからです。それらは3年生で習うでしょう。まだまだ4年、5年、6年、中学、高校、大学と数学を習います。    
義認を受けた私達は、きよめを受ける必要があります。きよめを受けた者はきよめられ続けていき、成長し成熟し、主のように変えられていくのです。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(第二コリント3:18)
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