静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年11月28日 | 説教要約

「神の恵みの深さ」 詩篇34篇1~10節

 本日からアドベントに入ります。クリスマスの出来事には、賛美が溢れています。この詩人は、主を精一杯賛美しています。なぜでしょうか?

Ⅰ 神に救いを求める

 彼は、主に助けを救いを求めています。なぜなら、彼のうちには恐れがあり、苦しんみ悩んでいたからであります。サムエル記上21:10~15の記事がこの詩の背景であると言われます。ダビデは、ガデの王アキシの前で、その危機を逃れるために狂ったさまを見せ、神の救いを求めたのです。

Ⅱ 神は救い出される

 神はその叫びに応えて、ダビデを助け救い出されました。王アキシの心を動かし、ダビデを狂ったものとみなし、解放したのでした。ダビデは、この時のことをおぼえ、あの時は主の使いが主を恐れ主に叫んだ私を陣をしいて守られたのだと確信したのです。だから、主なる神をほめたたえているのです。

 どんな状況の中にあっても、主を求め待ち望む者に、主は助けと救いを与えてくださるのです。私達には御使いどころではなく、御子イエスが十字架においてあらわされたように、今も私達のことを囲んで守ってくださっていることを信じるのです。

2010/11/28 説教者 杉本守

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天のマナ

2010年11月28日 | 天のマナ

 「地に生かされている今」  「今の時を生かして用いなさい。」(エペソ5:16)

 「谷間の泉」(カウマン夫人著)のデボーションブックの中に、「十字架を前にした主イエス

にマリヤが香油を注いだ出来事(その時にしかできない精一杯)」に関して書かれた次の文章に教えられました。

 

 「栄光の御国では、主の苦しみを負うことはできない。十字架を担うこともできない。ここである。ここ地上においてのみ。主への奉仕は可能である」。

 神の国に入ったあとの私達は、神をほめたたえることが主なことでしょう。それはなんとも

幸いなことです。天国では、主の苦しみを負ったり、十字架を担うことはもうしません。主イ

エスの再臨による新天新地によって救いは完成するからです。

 

 ですから、宣教、奉仕はこの地上でしかできないことなのです。ですので、もっと宣教しておけばよかった。もっと奉仕しておけばよかったと思わないように、地上に置かれている今を励みたいのです。

 

2010・11・28

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講壇の花

2010年11月28日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年11月21日 | 説教要約

「天国を真剣に求めよ」 マタイによる福音書11章1~19節

 主イエスは、弟子達を派遣した後も、各町々を巡り、神の国の到来を宣べ伝えました。本日は、その時にバプテスマのヨハネから彼の弟子達が、主イエスに質問を持ってきた箇所です。

Ⅰ 「天国」とは

 バプテスマのヨハネの質問への答えとして、主イエスはイザヤ所35章5、6節のメシヤ(救い主)の預言の箇所を引用し、その預言の成就としての自らの業、そしてその業により神の国の到来をなしていることを語り、自らがメシヤであることを示されたのです。

 天国(神の国)とは、神の恵みの支配であります。神の恵みの支配が主イエスによって、ある時には病の癒し(病への勝利)としてあらわされ、別には悪霊の追い出しや死人を生き返らせる(悪霊、死に打ち勝つ)こととしてあらわされ、何よりも魂の救い(罪の赦し)としてあらわされているのであります。

Ⅱ 「天国」を求める

 そして「天国」は、激しく襲われているのであります。神の恵みの支配を受けたい強く願う者達が、神の恵みの支配を受け、天国の祝福をこの時代にあって受けているのです。天国は、将来、終末に訪れるものだけれはないのです。

 天国の豊かな恵みを、今週も激しく求め、その恵みにあずかりましょう。

2010/11/21 説教者 杉本守

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天のマナ

2010年11月21日 | 天のマナ

 「主にある喜びを伝える」 

 先週の教会バザーのご奉仕を感謝いたします。多くの地域の方々が教会堂に来られ、教

会のメンバー(クリスチャン)に出会ったことでした。彼らは何を感じたでしょうか。きっと私達

クリスチャンのうちに居られる主イエスを見たに違いありません。

 私達の主イエスにある喜びの笑顔や生き生きとした姿を通して、主の栄光があらわれたこ

とが何よりも嬉しいことです。教会バザーの目的は、地域の方々に良き物を安い価格で提

供するという事や教会堂返済のために収益を得ることもありますが、それ以上に地域の方

々に教会堂に入っていただき、主イエスにあって輝く教会のメンバーを通して、主イエスの

素晴らしさを知っていただくためであります。兄弟姉妹のご協力により、今年も主の栄光が

あらわれるバザーを終えることができまして感謝いたします。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133編1節)

 

2010・11・21

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講壇の花

2010年11月21日 | 生花
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天のマナ

2010年11月14日 | 天のマナ

「教会に来て知る三つと救いの体験

 誰でも教会に来て礼拝に出席し御言葉に聴き入りますと、三つのことを知ります。

 

 一つ目は、神がおられること

 この神は、天地を創造された唯一の全能の神であります。人間が考え出したり作り出したりした神々ではなく、人間を造れた真の神であります。

 

 二つ目は、自分は罪人であること

 創造の冠で神の宝として造られた人間は尊いのですが、神から離れて自分を神とし、神に従わず自己中心に歩んでいるがゆえに人間は壊れていて迷っている(これを罪という)のです。その結果、罪人である自分は、神の裁きを受けるということであります。

 

 三つ目は、神が救ってくださること

 その罪人である自分を神は、神のひとり子である救い主イエスによって救ってくださるということです。その方法は、救い主イエスが人となり、私の罪を十字架の上で負い、私が神に罰せられるかわりに、イエスご自身が身代わりとなり十字架で神の裁きを受けたことであります。ですから、自分は主イエスを救い主と信じ、罪を悔い改めるときに、神はその者の罪を赦し義とし、神の子とし、神との交わりが回復され永遠の命をいただけるのです。これが救いです。そして信仰によりこれを体験するのです。

 

2010・11・14

 

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主日礼拝説教要約

2010年11月14日 | 説教要約

「主を賛美せよ」 詩篇33編1~22節

この詩篇は公の共同体の賛美の詩であります。彼らは誰に何を詩っているのでしょうか。

Ⅰ 世界を見られる主

 「主を賛美せよ」「主をほめたたえよ」と勧められています。賛美を受けられるのは主なる神です。では誰が賛美をささげるのでしょうか。「正しき者よ」「直き者」とあります。それは、神によって罪赦され義とせられ、神との関係が回復し正しくされた者のことであります。どのような方法で賛美をささげるのでしょうか。それは、楽器により新しい歌で喜びの声をあげてであります。なぜ賛美をささげるのでしょうか。その理由は、主なる神が世界の創造者であり、支配者として君臨し、この世界に目を注がれ摂理をもって導かれているからです。

Ⅱ 主を恐れる者を見られる主

 世界を見られる主なる神は、主を恐れる者達にも目を注がれています(18)。そして、主なる神は、その者達に心を留め、心を造り、魂に救いを与え、盾となり助けられるのです。私達が賛美をささげる主なる神は、そういうお方であります。

 この真の神を主とする者はどんなに幸いなことでしょうか。この主なる神を共に賛美ささげましょう。

2010/11/14 説教者 杉本守

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主日礼拝説教要約

2010年11月07日 | 説教要約

「主イエスに従う」 マタイによる福音書10章34~42節

 この箇所を読むと、主イエスの強い言葉にドキっとし、どう捉えてよいのか難しさをおぼえますが、共に主の言葉に耳を傾けましょう。

 もし、自分の病気がわかったら、あなたは家族に伝えますか?「病気であることを言ったら、今の家族の穏やかな生活が乱されてしまうと思い」、言わなかったら、その穏やかな生活は続くでしょうが、病気の悪化と共に、近いうちにその生活は崩れるでしょう。病を隠したままの平和は一時的表面的です。もし、病を家族に伝え、一時的な動揺ががあり平和が崩れたとしても、病気に対しての認識と治療に家族が一致できたら、どんなに幸いでしょう。さらに、家族が同じ病気だったら、なおさら病気を伝え共に治療に励むでしょう。

 罪はよく病気にたとえられます。聖書は「すべての人は罪人」と告げます。ですから、教会へ行き聖書を読みますと自らが罪人であること、家族もそうであることがわかります。そして、救い主イエスが救ってくださることもわかります。キリスト教の教えや「罪から救い」を知らない家族は、あなたが教会へ通い、救い主イエスを信じ救われて洗礼を受けようとするとびっくりするでしょう。あるいは「やめなさい」といわれるかもしれません。家族に波が立ちます。しかし、上記の病気のことを思い出してください。自分に罪があり、主イエスに救いがあることを知った者が、やめてしまったらどうなるでしょうか。自分も家族も罪の中にあり続けることになります。病気を隠したままでは本当の穏やかさがないように、罪を解決されないと本当の平和はきません。本当の平和を得るために、表面的な一時的な平和は追いやられる必要があるということです。自分も家族も神によって罪赦され本当の生き方ができるようになることが、本当の平和であります。

 ですから、主イエスの弟子として、主イエスに従う時に必要なのは、何よりも神を第一にすることであります。そして、自分の十字架を負うことであります。

 2010.11.7 説教者 杉本守

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天のマナ

2010年11月07日 | 天のマナ

「臨時総会における主の恵み

  主イエスは、足の不自由な者を立ち上がらせ、盲人の目を開き、中風の者を癒し、死人を生き返らせた

方であります。また、五つのパンと二匹の魚をもって五千人以上を養い、荒れ狂う海を一言でしずめ、ペテロ

をして海の上を歩かせ、悪霊を追い出し、何よりも人々を救い生まれ変わらせ父なる神のもとに返らせた救い

主であります。この事実を私達は信じています。

 

 その主なるイエスは、十字架に架かられましたが三日目に復活し、父なる神の右の座にて私達をとりなし、聖霊によって私達と共にいてくださる方であります。そして主イエスは今も生きていて、あの時代と同じわざを信じる者にみ言葉を通して体験させて下さる方であります。

 先週の臨時総会で、私達はその事をみ言葉における信仰をもって確認いたしました。信仰とは神を信じ、

神の御言葉にある力を体験することであります。「もし、信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)。み言葉

による主の大いなるわざを信仰により、共に体験させていただける幸いを感謝いたします。信じる者は、五年半後主を崇めるに違いありません。

 

2010.11.7

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