静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2021年08月29日 | 天のマナ
「本当の豊かさ」(クリスチャン新聞福音版2021年8月引用部分と参照)
 ルカ12:13~24にある「愚かな金持ち」と呼ばれるたとえ話があります。「本当の豊かさとは何か」が問われています。「所有=豊かさ」なのでしょうか?主イエスは、貪欲に気を付けるよう語り、人のいのちは財産にあるのではないと訴えました。
 ある金持ちの畑が豊作となり、倉を立て直して多くの穀物と財産を蓄え、毎日を贅沢に過ごす自分を想像します。しかし、神から彼が受けた言葉は、「愚か者」という叱責と死の宣告でした。神は、いのちを失えば、もはや、財産はその人のものではなくなるとい当然のことを知らせます。このたとえ話の目的は、「貪欲への警戒」です。貪欲とは多く持っていてもさらに欲しがること、「欲望の無限肯定」です。貪欲は、私たちに、まるで自分のいのちが財産にあるように考え違いをさせます。「所有がいのちの豊かさをもたらす」と錯覚させるのです。そして、いのちを授け、生殺与奪の権利を握っておられる神を、私たちの人生から除外させます。何より、財産も人のいのちも、すべては神の所有であって、人間はそれを委託されているに過ぎないという聖書が示す大切な真理を失わせます。17~19節に「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」と「私の」が三度も登場しますが、「神」は皆無です。「多く得ること」や「蓄えること」は悪いことではありませんが、神が託してくださったと受け止め、神への感謝をもって神の栄光のため、そして隣人への愛に用いることこそが、本当の豊かさなのです。
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講壇の花

2021年08月22日 | 生花
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天のマナ

2021年08月22日 | 天のマナ
 「状況に支配される信仰ではなく、状況を支配する信仰」
 先週の第一礼拝のメッセージは、パウロとシラスがフィリピの街で宣教した箇所(使徒言行録16章16~40節))からでした。彼らは、「主イエスこそ救い主である」と福音を伝えたゆえに迫害を受け、鞭打たれ、足には足枷(あしかせ)をはめられて牢獄に入れられてしましました。そのような苦難の状況の只中にあって、なんと彼らは賛美と祈りをささげていたのです。普通の人間なら、鞭打たれた肉体の痛み、福音を伝えたのに牢獄に入れられてしまった戸惑い、今後どうなってしまうのかという不安、当時の牢獄の汚い不衛生や悪臭、周りの囚人の騒がしさなどによって、支配されてしまうでしょう。しかし、彼らの信仰はこの時にも輝き、それらを逆に支配し、賛美と祈りによって牢獄を照らし、囚人らの心を静め二人に向けさせ、獄吏らも耳を傾けさせたのでした。「真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(25節)。そして、主は大いなる業をなされ、そこを獄吏の救いの場にしたのでした。
 20日(金)から、静岡県にも緊急事態宣言が出されました。コロナ感染症が広がっております。猛暑や大雨も加わり、困難な状況です。けれども、私たちが頂いている信仰は、彼らと同じ状況を支配する信仰ですから、賛美と祈りをもって隣人を励まし慰め、主に護られ堅く立って歩んでいきましょう。
 
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講壇の花11

2021年08月17日 | 生花
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第二礼拝式 お知らせ

2021年08月15日 | 週報の一部(礼拝式プログラム、お知らせなど)
2021年8月15日         
前     奏                          
招     詞  (詩篇100篇1~5節)
賛     美  新聖歌145「栄えに満ちたる」     起立
使 徒 信 条  新聖歌p826              〃
主 の 祈 り                       〃
祈     祷                      着席
聖 書 朗 読  マタイによる福音書23章37~24章2節 〃
           (新約聖書 共p.45/新p.49)
メッセージ    「神の愛による救いを受け入れなさい」   〃 
賛     美  新聖歌225「罪の汚れを」        〃
献     金                       〃
感 謝 祈 祷                       〃                   
頌     栄 新聖歌63「父 御子 御霊の」     起立
祝     祷                       〃
後     奏                       〃
報     告                      着席

・本日の礼拝式は、リモートでの礼拝となっています。場所はそれぞれでありますが、臨在し
 てくださる主なる神を心を合わせて崇め、礼拝をささげましょう。
・本日の午後1時より、リモートで教会学校教師会をいたします。
・12日(木)~14日(土)までリモートでユースジャムが行われ、それぞれが主の恵みを
 受けました。お祈りと献金を感謝いたします。
・熱中症、コロナ・ウィルス感染症から護られますように、共に祈り励ましあいましょう。
・何か困ったことがありましたら、教会または牧師の携帯電話にご連絡ください。

・8/19日(木) 祈祷会リモート  10:30a.m
                    7 :30p.m
(次週の説教箇所)
   「世の終わりのきざしマタイによる福音書24章3~14節
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天のマナ

2021年08月15日 | 天のマナ
  「主イエスを土台として信仰の家を建てる」
 前回の天のマナに記させていただきました。主イエスこそ永遠の岩であります。私たちクリスチャンは、その上に信仰の家を建てています。そこで自分自身に問いたいのです。どんな信仰の家を建てているかです。「三匹の子豚」の童話を思い出します。わらの家?木の家?レンガの家?私の家はどうだろうかと。
 昨年の4~5月に続き、本日から新型コロナ・ウィルス感染症の広がりにより、教会堂で共に集まり礼拝をささげることを数回休止し、自宅で礼拝をささげるようになりました。共に教会堂に集まれないという、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて信仰の家を揺るがすような困難な状況です。このような中で、私たちの信仰が試されます。どのような信仰の家を建てているかです。サタンは自分の最期が近いので必死に、この時も神とクリスチャンの関係を壊しにかかります。それに惑わされず、たとえひとりであったとしても、主はそこに臨在されているのですから、臨在の主を感じながら、主を礼拝することを重んじ、主なる神を愛し、拝してまいりましょう。わらの家ではなくレンガの家という信仰の家を建ててまいりましょう。
 十字架を前にして主イエスがペテロに語られた言葉を思い出します。「しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(ルカによる福音書22章32節)。主イエスは父なる神の右の座で、今日もあなたのことを祈ってくださっています。
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天のマナ

2021年08月08日 | 天のマナ
「岩を土台としている教会」 
 主イエスは、マタイによる福音書5~7章の山上の説教の最後に、「家と土台」のたとえ話をされました。雨が降り、川が溢れ、風が吹いても岩の上に建てられた家は倒れませんでしたが、砂の上に建てられた家は倒れてしまいました。神によって召し出され救われた者の共同体である教会は、神の言葉を信じ告白し行っているのですから、岩の上に建っているのです。ひとりひとりのクリスチャンである私たちもそうであります。ですから、雨が降り、川が溢れ、風が吹いても動かされず倒れることはありません。
 静岡県でも感染者が増え、6日(金)に新型コロナウィルス警戒レベルが6に引き上げられ、まん延防止等重点措置が適応されました。それゆえに、次週からは教会堂に集まって礼拝をささげることができなくなり、それぞれが自宅において礼拝をささげることとなります。昨年の5月にもこのことは経験しましたが、私にとっては今回も、体の肢体が離されていくような思いがしております。しかし、「倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(25節)のみ言葉に立ち、気持ちを切り替えて、なすべきことをなして行きたいと思っております。
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天のマナ

2021年08月01日 | 天のマナ
「御心を表す生け花」 
 
 静岡教会に導かれ6年目になり、今は月1~2回生け花の奉仕をさせていただいております。私は元々、都内のホテルで装花のお仕事をしていたため。教会の講壇に花を飾る程度の事なら、さほど難しいことはありませんでした。最初の頃は迷いもなく、とにかく綺麗に、自分が描いたイメージ通りに飾れれば良いと思っていました。あまり人の目をきにしちゃいけないとは思っていても、教会の兄姉に褒めてもらうたび、嬉しい気持ちを隠せませんでした。誰かが自分の活けたお花を評価してくれるのを待っていた時もありました。
 日曜日の礼拝に来ても、講壇のお花ばかりが気になって、もっとこうすればよかった、ここにはこのお花の方がよかったと、自分の至らない実力とミスを責めるようになりました。私がこんな気持ちになるのはなぜ?自分としてはただの小さな作品にすぎないのに!と、傲慢な自分がいました。
 「あなたがたは、それぞれの賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。」(ペトロの手紙一4章10節)。
落ち込んで戸惑っていた時、このみ言葉がパッと目に入りました。自分の心がすべて神様の前にさらけ出されたようで、恥ずかしくなりました。
 「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)。
こんな自分の至らないところさえも、神様はすべてご存知であることに気がつきました。また      「大丈夫だよ、落ち込まないで、あなたの今のままでいいんだよ」と、慰めて下さる御心を感じ、嬉しい気持ちになりました。
 今は、奉仕の前に必ず祈りから始めます。「主よ、こんな私に素敵な賜物を与えて下さり、また、環境を整えて下さりありがとうございます。何よりもまず主に喜ばれる捧げ物になりますように、私の心を守って下さい。また、この生け花を通して、見る人にもあなたの御心が伝わりますように」。これからも祈りつつ、喜びを持って賜物を捧げていきたいと願っています。
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