静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年05月30日 | 説教要約
「共におられる神」 マタイによる福音書8:23~27

 山上の説教において、言葉によって神の国の到来を語られた主イエスは、さらに行動(奇跡、癒し、死者をいきかえらせ、悪霊を追い出す)によって、神の国(神の愛の支配)を到来させました。その頂点は、十字架と復活による救いです。
 今朝は、嵐をしずめた主イエスの奇跡の記事から、み言葉をいただきましょう。

Ⅰ 人生の海の嵐
 弟子達は、主イエスを舟の乗せ、ガリラヤ湖の対岸に進みましたが、途中、突然の暴風に遭いました。そこで彼らは、「主よ、お助け下さい。私たちは死にそうです」と恐れ、寝ていた主イエスを起こしたのです。
 私たちの人生にも突然の嵐がやってきます。ある人は、「人生には七つの嵐がある」と言います。身体的、経済的、社会的、自然災害的、精神的、人間関係的、霊的なものです。これらを集約しますと、やはり、「死」と「死の原因である罪」となります。人は生と死の狭間で、恐れるのです。

Ⅱ 人生の海の嵐を乗り越えさせる主イエス
 そうした弟子達に迎い、イエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」と応え、風と波をお叱りになり、鎮めたのでした。すべてを治める主なる神であるイエスの権威と力をみるのです。
 弟子達は信仰がなかったのではありません。薄かったのです。弟子達は、「主イエスが共にいてくださるから、心配はない。いざとなったら主イエスの権威と力で鎮めて乗り越えさせてくださる。もし主の御心が他にあったとしても、信仰により天国に確実に入ることができる」という信仰の厚さであります。

 人生には突然の嵐が起こりますが、いつも主が共にいてくださることをおぼえ、最善を成してくださる主に信頼し、恐れから解放されて平安のうちに歩ませていただきましょう。

2010/5/30 説教者 杉本守
コメント (1)
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天のマナ

2010年05月30日 | 天のマナ
 「信念と信仰」

 先日のあるニュース番組の特集で、「近年は政治家を始め、信念を通す者が少ない」ということが放映されていました。それが己の利益や己の職の安泰のためだけの信念ならば、通してもらっては困るのですが、国民主権であることを踏まえ、国民のためになることならば、その信念を通してほしいと思うのです。しかし、人間の信念というのは、揺らぎ変わりやすいことも認めるのです。「初心忘るべからず」と言われるほどです。

 私たちキリスト者のいだいている信仰は、そのような信念とは異なります。信念は自己の確かさに根拠を持ち、信仰は神の確かさに根拠をもつ事柄であるからです。信念を持つ人は自己の確信の固さが強さでもあり、限界でもあります。キリスト者の信仰は、自分のうちに絶対がなく、神の御手の中にあってすべてが保たれることを知り、それ故に大胆に願い、その結果与えられたものを最上のものと信じて受ける生き方であります。神の言葉を信じて、敬い、その恵みの御言葉にみずからを委ねて生きることを喜びとする者たちの姿であります。

この信仰のゆえに以下のみ言葉を告白し体験できるのです。
 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)

2010.5.30
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講壇の花

2010年05月30日 | 生花
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主日礼拝説教

2010年05月23日 | 説教要約
「栄光の神が入られる」詩篇24篇1~10節

 ペンテコステをおぼえながら、この詩篇より、主のみ言葉をいただきましょう。

Ⅰ 栄光の王が入られる
 この詩篇は、第二サムエル記5、6章を時代的背景にしているといわれています。
 ダビデが、主の臨在のしるしである契約の箱を、エルサレムに運び入れたときに歌われた詩であります。
 ここで言われている栄光の王とは誰でしょうか。それは、万軍の主であり、どんな戦いにも勝利する方であります。また、1節ではすべてを御手に治め、2節にはすべを造られた方であります。まさしく主なる神であります。

Ⅱ 門を開けて迎える
 城壁の門に着くと、「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。」と声があがり、門は開かれ、栄光の王なる万軍の主が、入られるのであります。
 「とこしえの戸」は、古くからある由緒ある門であり、私たちにとっては、心の奥の固く閉ざされた門を指しているのではないでしょうか。主は、私たちのその門の前で、開けなさい、万軍の主なるわたしが入ろうと言われているのです。

 あの弟子達は、聖霊に満たされて、主の驚くべき恵みに満たされ、福音を伝えました。私たちも心の奥の扉を開いて、聖霊に満たされていこうではありませんか。栄光の王が入られます。

2010/5/23 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年05月23日 | 天のマナ
「主に満たされる」

 ワーシップ・ソングに「豊かな命」という、こんな賛美があります。

「くるぶしまででも膝まででもなく 主の命の水は 
 泳げるほどに豊かに流れ 心を満たし潤す 
 それは溢れる命 それは健やかな命 
 それは力ある命 心を満たし潤す 」

 この賛美は、エゼキエル47章のみ言葉からとられたものです。主の豊かな命、主の豊かな恵みを私たちはどこまで経験しているでしょうか。どこまで主の豊かさに満たされているでしょうか。くるぶしまでで「よし」としているのではないでしょうか。はたまた、膝までで「これくらいで」としているのではないでしょうか。主の豊かさはそんなものではありません。腰まで、いや泳げるほどに主の豊かさは溢れ、信じる者のうちを満たし生かすのです。

 そして主は「あなたはこれを見るか」と語られます。それは「経験している」かという問いです。本日のペンテコステ礼拝にて満たされましょう。

2010/5/23
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講壇の花

2010年05月23日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年05月16日 | 説教要約
「神の言葉をいただく」 マタイ8章5~13節

 百卒長の僕の癒しから、主イエスによる神の国の訪れをみていきましょう。
 
Ⅰ 主イエスに喜ばれる信仰
 この百卒長は、ローマの軍の百人部隊の長であり異邦人であります。一方、主イエスはロマに支配される国の一人の者でありました。しかし、彼は主イエスのもとに使いを遣わすのです。彼の僕への愛と主イエスへのメシヤとしての思いがそれをなさせたのであります。
 「ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とそれに続く彼の言葉には、主イエスのメシヤとしての絶対的権威と主イエスの言葉の絶対的な力を認めた信仰告白であります。
 主イエスは、彼の信仰を喜び、その信仰に応え、「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われ、その僕を癒されました。

Ⅱ 主イエスに喜ばれない信仰
 しかし、主イエスは百卒長の信仰をほめると反対に、選民意識にあぐらをかくイスラエル人に、神の言葉に対する彼のような信仰が見られないことを嘆き、「この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする」と警告的に語られました。さらには、「多くの人が東から西から来て天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」と異邦人への福音を述べられたのです。

 主イエスに喜ばれる信仰とは、主の言葉をいただき信じることであります。信仰は信念とは違います。信念は自分を自分の意志を根拠にしていますが、信仰は神を神の言葉を根拠にしています。いつも変わらず強くある神を土台にできる幸いを感謝するのです。神の言葉をいただき、体験していこうではありませんか。

説教者 杉本守
2010/5/16
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天のマナ

2010年05月16日 | 天のマナ
 「主と共に歩む実感」

 先日の祈祷会だったでしょうか、一人の兄弟が、自転車で清水方面に行かれた話しをしてくださいました。その兄弟は自転車や徒歩で方々へ行かれているというのです。

 先週、私も健康のため、朝8時前に車で海岸までいき、久能の海岸線の素晴らしい景色を見ながら1時間ほどウォーキングをしてきました。腰には水筒を入れたウエストポーチ、帽子とサングラス、左手にはセル・グループ表をもち歩きました。

 ワーシップを口ずさみ、心にある御言葉を何度も告白し、セル・グループ表をチラチラと見ながら、一人一人のために祈りました。折り返し地点からは、オリジナルの新曲の一部を、「こうか、ああか」と楽しい時間でした。ジョギングをしている方々もいました。ゆったりとした気持ちになり、主と共に歩いてくださっていることを実感しました。

 日常の忙しさにせかせかしたり、時代や社会の急動の中に追われたりして、主イエスとの交わりの豊かさをあじわう時が少なくなってしまうことがないように、1時間、30分だけでも時間を生み出し、主イエスと共に歩む喜びを実感していこうではありませんか。

 主イエスは、あなたに話しかけたいし、あなたに語りかけてほしいと思っておられます。
「見よ、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:20)

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講壇の花

2010年05月16日 | 生花
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天のマナ

2010年05月10日 | 天のマナ
 「主イエスにある交わり」

 ゴールデンウィークが終わりました。愛する兄弟姉妹はどのように過ごされたでしょうか?
 3日(月)牧師家族は、一つのファミリー、青年三人と共に、藁科川上流河川敷にてバーベキューを楽しんできました。天候も良く、青い空と新緑の山々、太陽の光を反射してキラキラ光る川の流れを眺めながら、ゆっくりしたひと時を過ごしました。川の水はまだ冷たい状況でしたが、ファミリーの三人も子供達は、ザブザブと川に入り歓喜の声をあげていました。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133:1)とのみ言葉のごとく、主イエスを信じ、主イエスを中心とした交わりは、本当に麗しく楽しいものです。焼くのと食べるのに忙しく、分かち合いをする時は持てませんでしたが、次回はもう少しのんびりして、ギターで賛美をしたり、分かち合いをして、主イエスが造られた大自然の中で、祈り合う霊的なより深い交わりの時をも持ちたいと願いました。

 今年も愛修会が秋にはもたれることです。主イエスを中心とした麗しく楽しい交わりを共に持たしていただきたいのです。
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