静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

講壇の花

2007年09月30日 | 生花

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天のマナ

2007年09月30日 | 天のマナ
  「信仰を全うする生涯」
  
 「最後まで成し遂げる」ということは、勇気と忍耐が必要であります。それは子供でも大人でも、どんな職でも自分の務めを最後まで果たすことは、時には困難を乗り越えなければいけないことさえあります。特に総理大臣ともなると、その職は重責であり、一つの判断が国民の大きな影響を与えます。どんなに大変だと思います。今回の総理大臣辞任は、健康上の理由で仕方がないことでもありますが、「成し遂げる」という点においては残念であります。
 
 さて、私達も信仰を最後まで成し遂げる者でありたいのです。どんなに劇的な救いを受けたとしても、一時には信仰が燃えどんなに大きな働きをしたとしても、途中で信仰から離れ、教会に繋がっていなければ、どのような顔で主の前に立つのでしょうか。召される時に、あるいは再臨の時に、「信仰を全うしてきました。困難や試練はたくさんありましたが、主イエスが共にいて下さり、いつも助けてくださいました」という者でありたいのです。要するに、たとえ大きな功績を残さなくても、忠実に真実に最後まで信仰を全うすることが一番大切なことなのです。故筒井芳郎兄を始め、シメオン会の信仰の先輩方の模範にならいたいのです。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」(ヨハネ黙示録2章10節)

2007/9/30
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主日礼拝説教要約

2007年09月30日 | 説教要約
「神による救い」 マルコによる福音書10:17~31

 主イエスの許に、一人の資産を持った役人の青年が来て、「永遠の生命を受けるために何をしたらよいのか」と訪ねました。この箇所から共に神の御言をいただきましょう。

Ⅰ 人間の永遠への求め
 なぜ人は、永遠を思うのでしょうか?それは、伝道の書3:11にあるように、神が人の心に永遠を思う思いを授けられたからです。この争いや病気、災害のある地上で永遠に生きるなら、こんなに辛いことはありません。しかし、喜びに溢れる神の国での永遠の生命ならば、人間にとってどんなに幸いでしょうか。
 
 彼は、十戒の人間相互に関する戒め(5戒~10戒、隣人愛についての箇所)は、幼い頃から守っていましたし、財や名誉、地位もありましたが、永遠の生命(神の救い)を得てはいなかったのであります。言い換えると、彼の内に永遠の世界に対しての本当の平安と確信がありませんでした。永遠の生命とは、神の救いであります。

Ⅱ 永遠の生命を与える神の救い
 主イエスは、彼に足りないことを慈しみをもって指摘し、永遠の生命なる神の救いに導かれようとされます。彼に足りないこととは、隣人愛は、「~しない」ではなく、「与える」ことでありました。その与える隣人愛の根源は、十戒の1~4戒の神との関係が回復され豊かであることであります。
  
 自分が何かをして得られるのではなく、神の前にへりくだり、神の愛をいただいて神に従うことによって得られるです。彼にとって多くの財が、神に本当の意味で神に従わせることを阻んでいました。人間の内からは、永遠の生命を受け得るものは何もありません。ただ、それは神によってなされるのです。「人にはできないが、神にはできる。神にはなんでもできるからである」。
 
 神を第一に神に従い、ますます神の救いの中にあり、永遠の生命という平安と確信のうちを歩もうではありませんか

 2007/9/30 説教者 杉本守
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天のマナ

2007年09月23日 | 天のマナ
「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(愛修会の恵み)

 高原の山中湖のすがすがしさは、心を落ち着かせ、山中湖より富士山を見る雄大な景色と、ゆっくりゆっくりと流れてゆく雲は、時をじっくりと感じさせてくれました。夕方に、朝に、お昼前に湖畔へ行くと、心の奥から、「輝く日を仰ぐ時、月星眺める時・・・森にて鳥の音を聞き、そびゆる山に登り、谷間の流れの声に、まことの御神を思う・・・」と聖歌21番の「輝く日を仰ぐとき」が口から出てきました。

 今回の愛修会のテーマは、「賛美の素晴らしさ」でした。夕食後、レクレーション(ゲーム)をし、その後に、「賛美をささげる者の心構え」を学びました。翌日は、楽器をもって賛美する聖書の箇所を開き、実際にリコーダー(縦笛)をもって賛美を一曲合奏しました。初めてリコーダーをもった方、吹いた方がいましたが、1時間半後には、曲を奏でていました。
 
 旧約聖書のネヘミヤは、バビロン捕囚帰還後、エルサレムの城壁を神の民と共に再建いたします。しかし、多くの困難が起こります。しかし、上記のタイトルの御言葉(ネヘミヤ記8:10)によって、完成するのです。賛美をもって主を喜ぶことをあらわしましょう。力が沸いてきます。
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主日礼拝説教要約

2007年09月23日 | 説教要約
「だれも私のことを思って心を痛めない」 第一サムエル記22章1~8節

 イスラエルの初代王サウルは、家来であるダビデがどんどん強くなり、手柄を立て、みんなの人気者になっていく姿を見て、恐れを抱くようになりました。それは、「彼は、これからもっと強くなる。そして、私から王位を奪い、私の命、私の家族の命を奪おうとたくらんでいる」と思ったからです。自分の王位、自分の命、そして、家族の命を守るためにサウルは、何度もダビデを殺そうと試みますが、いつも失敗してしまいます。
 
 あるときは、サウルの娘ミカルがダビデを救い、またあるときは、預言者サムエルがダビデを救いました。そして、またあるときは、サウルの息子ヨナタンがダビデの命を守りました。こんなに自分がつらい思いをしているのに誰も自分の味方になってくれない、みんながダビデの肩をもつ・・。誰も私のことを思って心を痛めない・・・。サウルは、孤独の中で心がつぶれそうになります。
 
 しかし、本当に誰もサウルのために心を痛めなかったのでしょうか・・・?
そんなことは、ありません。彼は、とても多くの人に愛されていた王でした。
息子ヨナタンは、親友ダビデと父サウルの間に入りとても心を痛めていた人でした。そして、ヨナタンは、ダビデを愛していたからこそダビデの命を守りましたが、それと同時に愛する父に(殺人)罪を犯してほしくないとも思っていたのです。
サムエルだってサウルのことを思っていました。サウルは、神様の御言葉を捨てたことによって王位を退けられましたが、そんな彼のためにサムエルは、ずっと悲しんでくれました。「あなたは、いつまでもサウルのために悲しんでいるのか」と、神様に叱られるくらいサムエルは、サウルのことを思っていたのです。

 しかし、サウルは、彼らのそういった思いに気づくことが、できませんでした。
人に愛されることは、幸せなことです。しかし、いくらたくさん愛されていてもその愛に気がつかない人は、不幸です。私たちも、たくさんの愛をいただきながら、その愛に気づくことができず、サウルのように「誰も私のことを思って心を痛めない」と、言ってしまうことがあります。しかし、間違っては、いけません。わたしのために、あなたのために心を痛めてくださっている方が確かにいるのです。その方こそイエスキリストです。イエス様は、私たちのために体も心もぼろぼろになるほど傷ついてくださいました。私たちが癒されるために徹底的に苦しんで、悲しんで、傷ついてくださったのです。

 この愛に気づく時に人は、様々な恐れや悲しみや孤独から解放されます。この愛を信じて幸せな人になりましょう

2007/9/23 説教者 酒井有希子(清水教会牧師)
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講壇の花

2007年09月23日 | 生花

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天のマナ

2007年09月16日 | 天のマナ
 「全力注いで」

 昨日、子供が通う中学校で運動会が行われ、一部の競技ではありましたが夫婦共々応援にいきました。私の子供の時代は、運動会が日曜日に行われたので、牧師の親は一度も見に来ることができなく、午後に叔母が見に来てくれましたが、子供としては少し寂しさを感じていました。

 子供はすでに中学生ですが、私や妻が子供の前に顔を出しますと、「ニコッ」とするのです。こちらも「ニコッ」とです。どの親もそうですが、自分の子供をさがし、熱いまなざしをおくるのです。親も一緒になって心の中で、走ったり競技したりしています。私もそうです。それと共に、子供達みんなが一生懸命協力して一つのことをなしている姿は、神様が人間に与えて下さった素敵なプレゼントである事に、最初のクラスリレーから、目頭を篤くしたのでした。

 神様の栄光のあらわれることに、さらに一生懸命協力してなしたいのです。その姿はどんなに素敵でしょうか。

 「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」(第一コリント15:58)
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主日礼拝説教要約

2007年09月16日 | 説教要約
「一心同体なる夫婦の幸い」 マルコによる福音書10章1~12節

 主イエスが、群集に神の国のメッセージをしていた時に、パリサイ人が近づいてきて、主イエスを試みる質問(離婚について)をしました。それに対する主イエスの応答から、幸いなる結婚、夫婦についてみていきます。

Ⅰ 人間の罪と弱さによる離婚
 男性優位な当時において、離婚は夫の権利とされ、些細なことからも妻は離婚に追い込まれていました。モーセの律法の「何か恥ずべきことを妻に発見した時には、離縁状を書いて離別しなさい」という言葉を、当時の夫達は自分勝手に乱用していたのです。モーセは、肯定的に積極的に離婚を許したのではなく、人の心の堅くなさ、罪深さや弱さのゆえに、神が人間に与えたくださった夫婦関係を尊重しないことのゆえに、やむを得ず許しただけのことでした。神の願いは、夫婦関係に問題が生じた時は、お互い悔い改めて和解し、神が与えてくださっている夫婦の祝福を受けることです。

Ⅱ 神の祝福としての結婚と夫婦
 主イエスは、この問いに対し、「結婚」という根本的な応えをまずいたします。
①結婚は天地創造、この世の始めに神が人間に祝福として与えられ制定された、聖なる祝福の秩序である。②結婚によって男性と女性は夫婦となり、精神的にも肉体的にも一つ、一心同体となる。お互いの足りないところを補い合い、一つとなり、一つを作り上げていく。③結婚は神の意思により、重んじるべきもの。④「二人の者が一体となる」とあるように、一夫一婦制でなければならない。

 神が備えてくださった妻、あるいは夫として、この聖なる祝福の関係にあずかり続けたい。夫婦の関係には他の誰もが入ることはできない。

2007/9/16 説教者 杉本守
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講壇の花

2007年09月16日 | 生花

担当 Y・M姉
                                          投稿 S・I

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9月9日 天のマナ

2007年09月09日 | 天のマナ
 「一番近い人への感謝」(すべての事に感謝しなさい)

 「当たり前からの卒業」という言葉をある牧師から聞きました。私は、日々の生活の中で、身近にいる人に助けられ、一番近い人に支えられていることをすぐに忘れてしまい、その人やその人の行為を当たり前のように受けとってしまいます。そして、その人がそれをしてくれないと不平をすぐに言ってしまいます。普段してもらっていることへの感謝の言葉もなくです。そして、たまあにしてもらう方からの親切を新鮮に感じ、すごく感謝するのです。困ったものです。まずは、身近な人に、「ここに目が開かれよ!」です。

 身近な人が旅行などで家を少し空けたり、病気などで休んでいるとすぐに、その方のありがたさがわかります。やっと気づくのです。数ヶ月前に妻が、義母と二泊三日旅行にいきました。洗濯物は溜まるは、食事作りは嫌になるは、必要なものは出てこないや、家は散らかるは、「早く帰ってきておくれ」と、言葉にはプライドがあって出さないものの、心の中ではそう叫んでいました。

 夫は妻の働きに感謝し、妻は夫の働きに感謝することから、家族へ、社会へ、お互いの労をねぎらい感謝する輪が広がるのですねー。
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