静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年12月30日 | 天のマナ
「すべての恵みを心にとめよ」

「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ」(詩篇103篇2節)、この節の後半を新改訳では、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」です。

 2018年は、教会でも大きな動きがありました。1月にM兄、3月にN家、4月にC先生夫妻、8月にSさん、10月にFさんが教会に加わってくださいました。また、1月にO姉、5月にT姉、12月にI兄を天に送りました。寂しさをおぼえますが、確実に天に送りできたことに感謝しております。教会の使命は、福音を宣教し、主が救われた兄姉を神の国に確実に送ることだからです。
 今年の主からの豊かな祝福を一年を振り返り、小さいことから大きなことまで共に数えて感謝をいたしましょう。そして新年も今年以上に、主は大いなる計画を用意してくださっていることを信じて、それらを信仰によって共に体験していきたいと願い、祈ってまいりましょう。
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天のマナ

2018年12月23日 | 天のマナ
 「Blue Christmas」

 Blue Christmasという言葉を知りました。クリスマスは喜びが溢れ、賛美がささげられますが、時に問題の中で不安であったり、思わぬ出来事で心の痛みをおぼえていたり、病の痛みを感じていたり、愛する者を天に送るという喪失感の中にあったりと、加わりたくても加われない方々もいらっしゃるのです。その方々に、静かにクリスマスを過ごすブルークリスマス礼拝がささげられている教会がアメリカにあるそうです。ある方のフェイスブックには、こんな祈りの一文がありました。「憐み深い神よ、このアドベントの季節に私達の祈りをお聞き下さい。・・・今日を生きるための力を、明日を迎えるための勇気を、そして過去を覚えるための平安をどうぞお与え下さい。喜びと悲しみ、死と新しい生命、そして絶望と約束をわたしたちと共に分かちあって下さるキリストの御名によって祈ります。アーメン」。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」(ヘブル4:15)
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天のマナ

2018年12月16日 | 天のマナ
 「賛美の中に住まわれる主」(施設でのクリスマス賛美)

 昨日は、ゴスペルの有志メンバー(4人)で、施設に入所、通われているの方々に、クリスマスの賛美を届けてくることができまして感謝しました。親御さんやスタッフの方々も含め100名以上の方々が集って下さり、幸いな時を持たせていただきました。私には想像もできないほどのご苦労をされておられる方々に、主のご降誕の喜びと支えと励ましが豊かにあるようにとの願いを込めて、4曲を賛美させていただき、その間にみ言葉を読みました。私達の内にいて下さり、私達のささげる賛美の中にいて下さる主なる神が、私達の言葉、歌声、表情、動き、そして存在そのものから、あらわれてくださったことと信じております。
「しかしイスラエル(神の民)のさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。」(詩篇22篇5節)
 自らのクリスマスにとどまらず、この喜びと恵みを、賛美や笑顔や優しい言葉や麗しい行動によってあらわさせていただきましょう。
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天のマナ

2018年12月09日 | 天のマナ
 「告別式メッセージ要約」
 
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル人への手紙11章16節)

 「旅」と「放浪」の違いは、目的地があるかないかです。旅は目的地がありますが、放浪は目的地がなくさまよっている状態です。ヘブル11章にでてくる信仰者達の中には族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)も何人かいます。彼らは裕福でしたが、そこを安住の地としないで、自分は地上では旅人であり寄留者であると言いあらわしました。この地上でどんなに裕福でもそれは安住の地ではなく、安住の地は天のふるさと(永遠の神の国)であると望み、そこを目指し信仰の歩みをしました。ですから神も彼らを喜び、彼らのために永遠の都(神の国の都)を用意されていたのです。兄弟も20歳までは放浪でしたが、21歳で神を信じ救われ、永遠の命を頂き、地上の歩みは神の国への旅へとかえられ、今は神の国あることを確信する者であります。私達の地上での歩みは、「旅」「放浪」のどちらでしょうか?主イエスを救い主と信じ告白し、天のふるさとを目指した確かな歩みをしていきましょう。
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天のマナ

2018年12月02日 | 天のマナ
 「キリスト教の葬儀」
 
 キリスト教の葬儀では、召天者を神仏として祭ったり供養することをいたしません。葬儀の意義と目的は、召天者の生前を偲び、遺族を慰め、参列者のすべてが死という厳粛な事実を通して、それを越える神からの希望を知ることにあります。ですから、キリスト教の葬儀は、人に永遠の命をお与え下さる神を仰ぎ見る礼拝の形式となります。そして、召天者を永遠の神の御手に委ねます。讃美歌は、召天した者にも生きている者にも、恵みを与えて下さる神を賛美するものです。式後の献花または飾花は、亡骸を花で飾るもので、仏教式の焼香、神道式の玉串奉奠とは異なり、死者を崇拝したり、それに手を合わせるものではもありません。キリスト教では、礼拝の対象は天地創造の唯一の神だけです。

 神から永遠の命を受けているクリスチャンの地上の死は、永遠の神の国への一つの通過点、扉に過ぎません。寂しさや悲しみを抱きますが、豊かな神の慰めと天への希望をいだだき、すべての勝利をもっておられる神に共に礼拝をささげましょう。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)
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