静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日説教要約

2010年07月25日 | 説教要約
「一つの事を神に願う」 詩篇27篇1~6節

 命をねらわれる窮地に立たされた時、あなたは何を神に願うでしょうか?
 この詩篇の詩人は何を願ったのでしょうか?

Ⅰ 神への確信
 窮地の中でこの詩人は、ます確信の告白をしています。それは、「わたしは恐れない」ということです。なぜなら、彼は主なる神がわたしの光であり、救いであり、命の砦であることを信じ、その主なる神に寄り頼んでいるからであります。主なる神は、私を決して見捨てずに、救われるからであります。

Ⅱ神への願い
 その確信の告白をし、このことを土台にし、彼は神への一つの事を願いました。その願った内容は、主なる神との交わりが深くされることでありました。主と私の縦の関係が真っ直ぐで深く豊かであるならば、人や状況などの横の関係もスムーズになされることを彼は知っていたからです。
 「主の家に住む」の「住む」に注目したいのです。それは、「立ち寄る」とか「訪れる」ということではなく、「居続ける」ということです。

 私たちもいろいろな状況に置かれますが、主日や祈り会の日だけではなく、平日も主との深い交わりにあり続けたい、主の家に住み続けたいのです。その時にすべてが解決されていくのです。

2010/7/25 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年07月25日 | 天のマナ
 「伝えないではいられない」  

「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16)

 私たちのグレースチャペルが属する日本ホーリネス教団の今年度の標語は、「伝えないではいられない」です。わたしはこの標語が大好きで嬉しくなります。もし、「伝えなければならない」でしたら、律法的、義務的で頑張りが求められ、うまくいけば高慢になり、うまくいかないと落ち込み自分を責めるからであります。

 しかし、「伝えないではいられない」は、恵みであります。主イエスによって命をいただき生かされ、救い(罪赦され義とせられ、神の子とせられ、永遠の命をいただくこと)を受け、主イエスに今も愛され、主イエスが共にいてくださっている喜びから始まり、喜んでいるクリスチャンを通して、主イエスが伝えてくださるのです。

 以前私は、「救うのは主イエス、伝えるのは私」と考えていましたが、今は「救うのは主イエス、伝えるのも主イエス、私は主イエスを喜ぶこと」と考えています。私たちが救われている喜びに生きていますと、主イエスは、時を与え、語る言葉を与え、伝える相手を与えてくださり、主イエスがその者を通して相手に語ってくださるのです。喜びのある所に人は集まります。私達こそ本当の喜びをもっているのです。


2010/7/25
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講壇の花

2010年07月25日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年07月18日 | 説教要約
「罪を赦す権威あるイエス」 マタイによる福音書9章1~8節

Ⅰ 共に主イエスの前に出る
 一人で主なる神の前に出ることができる時と、一人では難しい時があります。この中風(体が麻痺する病)の者も一人では出ることができない状態でありました。私たちも、時には一人で神の前に出れないほどの心が動かない状態になるときがあります。
 しかし、彼を主なる神のもとに運んだ者達がいました。彼らはこの中風の者への愛と主イエスに対する信仰を持ち合わせていました。一人では無理な時は、共に主の前にでればいいのです。

Ⅱ 主イエスの赦しと癒し
 主イエスは、この中風で苦しんでいる人が、癒し以上にその罪の赦しを必要としていることを知り、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ」と宣言をしたのです。それは、神にしかできない罪の赦しの宣言でありました。
 まさしく、主イエスは人であると同時に神であるお方であります。救い主としてこの世界に来られた神のひとり子が圧倒的な権威を示されたのです。
 中風の者は、病が癒されるだけではなく、罪の赦しをいただいて、立ち上がったのでした。

 私たちも一人で、または共に主の前に出て、主の赦しと癒しを受けようではありませんか。

2010・7・18 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年07月18日 | 天のマナ
 「神の前に泣きなさい」  
 
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)

 以下の記事は「神父さま、こんなこと聞いてもいいですか?」というFEBC番組からのもので、リスナーからの質問に、百瀬文晃氏(カトリック・イエズス会司祭)が答えた抜粋です。
 質問は「うつ病になり、仕事も出来なくなりました。毎週欠かさず教会に行って、毎日欠かさずお祈りもしているのに、なぜこんなことばかり起こるのでしょう・・・。これは何かの罰ですか?」。    

 百瀬氏は答えます。
 「トマス・アクゥイナスという学者がこんなことを言っています。信仰の危機の時には、『よく食べなさい』『よく眠りなさい』『お風呂に入りなさい』『友を訪ねなさい』と。そして最後の五番目に大切なこととして、『神の前に泣きなさい』と言うんです。偉そうな祈りをしなくていいんです。自分の惨めさをさらけ出して泣くだけ泣くんです。悲しい事、苦しい事、全部打ち明けて泣きなさいと言っています。

 うつというのは自分ではどうしようもないものです。だから、そこで無理に「神様にお願いする!」なんてしないで、自分が出来ることをやること。それから、『泣きなさい』と。『治してください』の前に『泣きなさい』なんです。自分を責めないでいいから、まず休むこと。軽い運動でもして、お風呂にでも入ってくつろぐこと。自分の弱さや欠点、そんなことを全部忘れて、ありのままをまず受け入れることが大切じゃないかと思います。」


2010・7・18
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講壇の花

2010年07月18日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年07月11日 | 説教要約
「わたしをきよめてください」詩篇26篇1~12節

 この詩篇26篇は、「弁護を求める祈り」と言われています。この詩篇より主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 内外の困難に中にあって
 この時、この詩人は、あらぬ疑いをかけられ、非難をあびせられていました。彼はどうしたかといいますと、神の前にそのことをもっていったのでした。それは、神は全知全能で、だれにもわからないことでも、神にはその真実がわかり、すべてをお見通しであるからです。彼はすべてをご存知の神に、弁護を願ったのでした。

Ⅱ 主なる神に祈る
 彼の祈りの内容は、豊かであります。しかし、その中心は「きよめてください」でありました。あらぬ疑いをかける者に対して、怒ったり反撃をしたりするようなことはしないで、この世の者とは区別され神のものとしされ、きよくあらせてくださいと祈ったのでありました。そして、神の言葉と神を恐れ愛する同信の者らの中にあり続けることを告白したのです。

 人が真に誠実に正しく歩むには、隠れたところまでみておられる神を畏れ、その言葉によって歩み、主を愛する者達の中にいることであります。きよくあり続けましょう。

2010/7/11 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年07月11日 | 天のマナ
「分け合う喜び」 
 
 沖縄には模合(もあい)と呼ばれる金銭相互扶助の習慣があります。模合の主なかたちとしては、信頼できる友人数人でグループを作り、毎月一定の金額を出し合い、集まったお金を順番に取ります。

 分かりやすく説明するならば、(例えば)7名のグループだとすると、各人が月々1万円ずつの出資をすると、ひと月に7万円が集まります。これを、今月はAさんが取り、来月はBさんが取り・・・という具合に7ヶ月で一周するわけです。必要な時には非常に助かるようです。模合は金銭扶助という目的以上に、仲間同士が集って「ゆんたく」(おしゃべり)をする、一つの手段になっているようです。楽しく独特な習慣です。

 私たちも、月一回セル・グループで集ります。1万円は持ってきませんが、ひと月の主からいただいた恵みを持って来て、分かち合います。時には重荷を持ち寄るでしょう。その重荷も分かち合います。持ち寄った恵みや重荷を通し、さらにそこで主がわざをなし、皆に触れてくださり、一人がもらうのではなく、皆がもらえるのです。ですから、どんどん持ち寄りましょう。

 「すべて良いものを分け合いなさい」(ガラテヤ人への手紙6章6節)

2010・7・11
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玄関の花

2010年07月11日 | 生花
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天のマナ

2010年07月04日 | 天のマナ
【天のマナ】 「なんくるないさ~」
 
 お祈りを感謝いたします。一週間ほど沖縄伝道旅行へいってまいりました。沖縄の人は明るくてのんびりな印象を持ちました。南国の島、暑い気候のせいもあるのでしょう。沖縄の独特な言葉や習慣(ゆんたく、もあい)を少し教わってきました。

 その沖縄の言葉の一つに、「なんくるないさ~」があります。今まで私はこの言葉を、少し投げやりな言葉、「どうにかなるさ」ととらえていましたが、実はこれは、「精一杯取り組んだことに対して、『結果はなんとかなるさ』」ということでありました。精一杯しないで、いい加減なところで言う言葉ではないようです。

 この言葉は、私たちキリスト者の委ねる信仰に似ています。私たちのなす分は精一杯して、あとは最善になされる神様にお任せをする。心配は神様の分で、私たちの分は委ねることであるのです。今週も、なすべきことをなし、「なんくるないさ~」でいきましょう。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(ペテロ第一の手紙4章7節)

2010/7/4
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