静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2022年03月27日 | 天のマナ
「主イエスの前に立つ時が近い」
 今年度も終わります。今年度も激動の年でした。二回(9月と2月)、いつものように会堂に集まって礼拝を捧げることができず、自宅礼拝となりました。静岡教会も創立してから70年間、こんな経験は始めてでした。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」(マタイ24:7)とあるように、今の時代、戦争、地震、ウィルスなど、終末の前兆であり、主イエスの再臨が近いことを思います。
 新年度が始まります。4月より進級そして進学(高校、大学、専門学校)、転勤での職場など新しい環境で歩む兄姉もおられます。期待半分不安半分でしょう。主の助けに支えられ、主の祝福が豊かにありますようにお祈りしております。
私たちも今年度も守られたことを感謝し、来年度も主への期待をし、また再臨を待ち望む者として、いつ主イエスが再臨されてもよいように、信仰の目を覚ましていましょう。「(真の平和なる)主よ疾く(すぐに、急いで)来たりて、世界を治め給え」との新聖歌464の歌詞を思い、「マラナタ(主よ、来たりませ)」(Ⅰコリント16:22)が響きます。
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講壇の生花

2022年03月13日 | 生花
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天のマナ

2022年03月13日 | 天のマナ
 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」  
 1月30日(日)~3月6日(日)まで6回、自宅での礼拝となっていましたが、本日から教会堂に集まって礼拝をささげることができる恵みを感謝いたします。自宅礼拝中、多くの兄姉から、「早く礼拝堂に集まって礼拝を共にささげたい」との声を聞きました。これはとても嬉しいことであります。なぜなら、この言葉にあらわされた思いは、単なる以前の習慣に戻りたいということではなく、「教会の健全さ、信仰の健全さ」をあらわしているからです。まさしく使徒信条にある「聖徒の交わり」を求めている声であります。もし、教会に集まらず交わらなくても心が渇かないなら、それは不健全であります。主の救いを受けた者達は、教会(公同の教会と地域の教会)に属していますし、この求めにあるように、共に集まって主なる神に礼拝をささげ、主にある聖なる交わり(聖餐と愛餐:霊の糧と肉の糧の分かち合いと祈り)をすることにあるからです。もちろん、病いで、高齢で、近くに教会がない場合などもあります。しかし、以前、ひとりの姉妹を老人病院に訪問させていただく度に、「教会に行って礼拝をささげたい」、また「早く天国に行って永遠に礼拝をささげたい」とおっしゃっり、姉妹の心は常に聖徒の交わりにありました。時に、「交わりにつまづいたので」という声も聴きます。もちろん地域教会の完成は、主イエスの再臨の時ですので、地上にある時には聖徒の交わりが、喜びだけではなく、つまづくこともあり痛むこともあります。だからといって、この交わりから離れるのではなく、この交わりの中心にいてくださる主イエスによって癒されきよめられ、練られ造られていく機会となし、教会もひとりひとりも成長し成熟していくのです。
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天のマナ

2022年03月06日 | 天のマナ
「コロナ下での歩み」
 この二年間のコロナ下で、教会堂での礼拝式の休止の期間が三度ありました。当初は「戸惑い」からの「不安や心配」があったことでしたが、主の護りと支えの中で、ひとりひとりが忍耐を働かせ、信仰を掲げ続けて歩むことができました。困難な中でも、主からの知恵が与えられて、この中でしか体験できない主の恵みも受けました。また、神の家族として祈り合い励まし合ってきました。「忍耐は練達を(品格)」を生むことを実感しております。
 コロナ下で人間関係が希薄となっています。相手の気持ち、考え、立場を受け止める心の広さ、思いやりがなくなり、自分さえ安泰なら良いという思いが広がっています。言うまでもありませんが、軍事力による他国への侵略には愛が全くありません。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)とあり、終末には愛が冷えることを主イエスは語られました。まさに「隣人を自分のように愛しなさい」「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」という主イエスの愛の律法(ヨハネ15:12)が疎かにされてきています。今後世界にはさらに二極化していくことでしょう。「自己愛のみ」か「主なる神の愛により自分を愛するように隣人を愛する」か。私たち教会は、主の愛によって互いに愛し合うものでありましょう。
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