静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年10月31日 | 説教要約

「新しくされる」 コリント人への第二の手紙5章17節

 ある国際弁護士であります方の救いのお証を読んだことがあります。彼は、法律家でありますから、「六法全書」がすべての法律問題の解決だと信じ、一生懸命に研究し励んでおられました。しかし、最後は裁判官の判断で判決が左右されてしまうことをつくづくと知らされます。裁判官が途中で変わってしまうとさらに大変です。このような中でストレスを覚え疲れ、「不安」「むなしさ」「無力さ」を体験したようです。そんな時、友人を通して教会へさそわれ、救い主イエスとの出会いがありました。

 主イエスを救い主と信じてから、彼は新しくされました。以前の「不安」「むなしさ」「無力さ」から解放され、今では「Mr.Don't worry」(心配しない方)と呼ばれているのです。

 「だれでもキリストにあるなれば、その人は新しく造られた者である。古い者は過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(聖書)

2010.10.31 説教者 杉本守

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天のマナ

2010年10月31日 | 天のマナ

 「One for all, all for one

  スポーツのラクビーには、素敵な精神が多くあります。「No side」(ノーサイド)は、「試合が終了

した時点で敵味方はなくなる、どちらの側でもなくなる」という意味であり、また「One for all, all for one」(ワンフォー オール、オール フォー ワン)は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意味で、自分のためにプレイするのではなく、チームのためチームメイトのためにプレイするということです。

 

 「トライ」(ゴール)するバックス(ボールをもって相手陣地へ走る役)が、よく脚光を浴びます。しかし、フォワード(スクラムを組んだり、相手がボールを取りにくるのを体をはってタックルし阻止する役)はあまり脚光を浴びません。けれども、彼らはひがむどころか進んで身を投げ出しバックスが前に走れるように自分の役に徹するのです。バックスもその犠牲によって得たボールを抱きしめ、ゴールに向かうのです。そしてトライしたのならそのことを自分だけの栄誉にせず、全員で喜ぶのです。

 

「神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。」(ヨハネ第一の手紙4章11節)の言葉がうちに響きます。

 

 

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講壇の花

2010年10月31日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年10月24日 | 説教要約

「罪がゆるされた」 詩篇32篇1~11節

 この詩篇は、深刻な認罪と苦しみを通って、真実な罪の告白をし、その故に得られた全き赦しの経験をうたっています。この内容を通して神のみ心を知りましょう。

Ⅰ 罪ある人間

 聖書は、「義人はいない。ひとりもいない」と人間はすべて罪人であるといいます。罪とは、「的外れ」であります。神に造られて神に従う時に真の平安を持つ人間が、神から離れ神を認めず、自らを神とする自己中心の歩みが的外れというのです。その結果、さまざまな罪を犯し、人間関係の混乱と自らの人格の破壊がもたらされ、最終的には神に裁かれ永遠の滅びにあうのです。誰がこの罪と罪の結果から救い出して下さるのでしょうか?

Ⅱ 神により罪赦された喜び

 この詩篇は、悔い改めの詩なのに、最初の言葉は、「幸いな者よ」という歓喜で始まっています。なぜなのでしょうか。この詩人は、自分の罪深さと罪の結果である状況をよく知っていました。しかし、彼は自分の罪を隠していた時は苦しんでいたが、神の前に全てを告白した時、悔い改めた時、神の圧倒的な権威ある赦しを受け、神との関係が回復し、神の命が流れ込み義とされたのでした。そのことを歓喜しているのであります。

 あなたの罪は解決されていますか? 神はどんな罪をも赦し、その罪責から解放してくださる方であります。そのために神のひとり子なる救い主イエスが、あなたの罪を負って十字架に身代わりに掛かられたのですから。「Oh Happy Day!」

2010.10.24 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2010年10月24日 | 天のマナ

「神の栄光があらわれるかどうか

 青年クリスチャン達の集まりで、よくディスカッションの題に上がる一つが「お酒」です。「お酒は飲んでいい

のか?」「酔わなければいいのではないか」「少量なら健康にもいいではないか」など。あなたはどうのような

考えを述べるでしょうか。『「これはしてはよいが、あれはしてはいけない」』と『酒』に関わらず、様々な題に

ついて先輩クリスチャンによって、牧師によって言うことが違うなあ」と私は青年時代に感じていました。それ

ではクリチャンの歩みの基準は何でしょうか?

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(第一コリン

ト10章31節)にあるように、クリスチャンの歩みの基準は、「神の栄光をあらわす」ことであります。「してよい、

していけない」と考える前に、それは「神の栄光をあらわすか、あらわさないか」を自分に問い判断したいのです。「酒」だけに限らず、すべての歩みを照らし合わせて。

 

2010.10.24

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天のマナ

2010年10月17日 | 天のマナ

 「命じる方は成し遂げる方


 
主日の備え日であります土曜日の朝6時半から、チャペルで毎週早天祈祷会が持たれています。一人の

姉妹が熱心に通われ、賛美とみ言葉と祈りとによって、主日の準備が始められます。

 今は、「谷間の泉」(カウマン夫人著)を通して、み言葉を味わっています。昨日のみ言葉は、「もし神があなたに命じられるならば、あなたはできるだろう。」(出エジプト記18:23)でした。多くの神の民を導くモーセに語られたみ言葉です。モーセは孤軍奮闘していましたが、神の知恵をいただき、神の民を多くの忠実な僕たちに委ねて、民を神の約束の地まで導くことができました。それは、神から出たことであり神の命令であったからです。

 教会形成の一つである会堂建設の出所はどこでしょうか。それは神のみ心からの命令でありました。建設

時の兄弟姉妹へ、そしてその後加えられる兄弟姉妹への神の命令であります。

 なぜなら、次のみ言葉が示しています。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現にいたらせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)。
 命じる方は成し遂げる方でもあります。

2010・10・17

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主日礼拝説教要約

2010年10月17日 | 説教要約
「主イエスを受け入れる者は」マタイによる福音書10章24~33節

 主イエスの弟子の宣教への派遣の続きから、み言葉をいただきましょう。

Ⅰ 真の神を恐れれよ
 弟子を派遣する際に、弟子達に、迫害する者を恐れるな、そして真の神を恐れよと述べた主イエスの言葉の一つ目の理由は、私自身(主イエス)が救い主であり、その弟子達は真理なる福音を伝えているのであるから、必ずそのことは明らかにされ、そして、迫害する者の誤りも明らかにされるということであります。二つ目の理由は、宣教する弟子達には、一羽のスズメさえも忘れないで保護する父なる神の守りがあるからであります。

Ⅱ 真の神を受け入れよ
 どんな時も、人の前で、主イエスを受け入れるようにと、弟子達に主イエスは言われました。それは、迫害する者の前でもです。「受け入れる」とは、「主イエスを信じ続け、イエスこそ主であること」を言い表すことであります。そうする者を父なる神の前で、主イエスに受け入れられるのであります。
 しかし、主イエスを人の前で、受け入れない者、知らないと拒む者は、主イエスにも父なる神の前で知らないと拒まれるのです。

 主イエスをいつも受け入れ、どんな時も信仰告白を聖霊によってなしていきましょう。

2010・10・17 説教者 杉本守
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講壇の花

2010年10月17日 | 生花
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天のマナ

2010年10月10日 | 天のマナ

「自分で気がついでないだけ


 
先週の金曜日、日本対世界的プレーヤーのメッシがいるアルゼンチンのサッカーの試合が放映されまた。結果は、なんと驚くなかれ日本が1-0で勝利しました。アルゼンチンは世界ランク5位で、日本は30位、今までの対戦で一度も勝利したことがない相手です。日本は、かなり善戦しても「引き分け」と誰もが予想していました。

 日本の勝利後、ある新聞で新監督ザッケローニ氏は、「
選手のクオリティ(質)は本当に高い。自分で気づいていないだけ」と語り、日本選手の技術を信じ、自身の味を加えることで、アルゼンチン相手でも対等に戦えると信じていたのでした。そして世界のレベルにまだまだといつも思い込んでいた日本の選手に、あなたがたも世界的レベルにあると自信をもたせ自覚させて送り出したのではないかと思うのです。

 
 私達クリスチャンは、確かに日本では少数であり、自らの弱さをおぼえることがあります。しかし、気づいて
いるでしょうか?私達は神の子であり、私達の内には聖霊なる神がおられ、私達には主イエスにある勝利が確実に与えられていることを。

「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

2010/10/10

 

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主日礼拝説教要約

2010年10月10日 | 説教要約
「祈りの居城」詩篇31篇21~24節

 迫害と辱めによって身も魂も衰弱しきった中で、詩人は主を仰いでいるこの詩篇から、神の御心を知らしていただきましょう。

Ⅰ 逆境の中での祈り
 詩人は、逆境の中であったことが9~13節からわかります。これはダビデの詩で、ダビデがサウル王の手を逃れて、マオンの荒野にいた時(第一サムエル23章)のものであるとも言われるものです。
 この逆境の中で、詩人は何をしたでしょうか。詩人は主を仰ぎ心ひるまず祈っていたのです。「御顔をあなたのしもべの上に輝かせてください」と。彼にとってはまさしく、主こそ私を救う堅固な城であり、隠れ家であり、彼はそこに身を寄せたのです。

Ⅱ 逆境の中での恵みの体験
 彼は祈りの中で、彼の苦悩が主の恵みによって突き破られる経験をいたしました。21節に「主はほむべきかな」と神をたたえています。その理由は、主はこの逆境の中でも、その中でしか味わえない隠された神の恵みを見い出し体験したからでした。そして、自らを含め「すべて主を待ち望む者に、強くあれ、心を雄雄しくあれ」と叫びこの詩を終えています。

 私たちは逆境の時、何をするでしょうか。詩人のように堅固な城である神の懐に、私たちの祈りの居城に身をおいて、そこに隠されている神の恵みを体験したいのです。

2010・10・10 説教者 杉本守
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