静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2019年06月30日 | 天のマナ
「過去の捉えなおし」
 先週のゴスペル・コンサートでMIGIWAさんが自らの救いの証しをして下さいました。人と接するのが苦手だったMIGIWAさん、やがて自分の部屋に引きこもり、生きる意味もわからなくなり、ただギターを弾き歌を毎日歌っていました。しかし、その中で神と出会い、神によって変えられて、今は多くの人の前で、自分を救ってくださった神に賛美をささげる者にされているとのことでした。あの自分の殻に閉じこもっていた数年間、意味があったのだろうかと思う中、主イエスによってあの経験も意味あるものに捉えなおすことができたというのです。あの時、ギターを練習することができ、歌を歌うことができた。神に変えられ用いられる準備の時だったと。
 私たちの人生には、様々な過去の傷があります。自らの挫折、失敗など、他からの誹謗、中傷などによっての心の傷です。しかし、主イエスにある時に心の傷が癒され、苦々しい思い出から解放され、すべてのことに意味を見出し、ほっこりする思い出に捉えなおすことができるのです。
 神の恵みは苦い根を喜びの根にしてくださるのです。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されないようにしなさい。」(へブル人への手紙12章15節)
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天のマナ

2019年06月23日 | 天のマナ
「救われた喜び」
 本日の午後3時より、ゴスペル・コンサートがもたれます。二年前にも来てくださったMigiwaさんがゲストとして賛美をささげてくださいます。また、当教会のゴスペル・クワイアも賛美させていただき、コンサートの終わりにはコラボをさせていただきます。
Migiwaさんが前回来てくださった時に、CDを買わせていただき、何度も何度も聞かせていただきました。また当教会でも、「どんな高価な宝よりも」を礼拝の終わりに三か月賛美いたしました。メロディもそうですが、私は信仰告白となっている歌詞に毎回感動させられます。主イエスを知らなかった自分、信じていなかった自分から、主イエス様にに見出され、出会い、信じ、救われ変えられた自分を素直に真実に言葉にあらわし歌っておられます。「ああ、私も同じ思いだなあ。本当にそうだなあ。なんて幸いな者とされたのだ」と。本日の午後3時より、コンサートに是非ご参加下さり、Migiwaさんを通して主の愛をいただきましょう。
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天のマナ

2019年06月16日 | 天のマナ
 「神の様の恵みの中で」

 今週の土曜日に、結婚式を挙げられます。「父親としてはどういう心境ですか?」とよく聞かれますが、「子供を自立させるという親の責任を果たした安心感」と「神様の恵み、そして皆様のお祈りとサポートによりここまでこれたという感謝」と応えるのが今の所かと思います

娘達の命名は、夫婦で祈り考え、聖書から頂きました。長女は、創世記17章1節の「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」から、次女は、詩篇84篇4節の「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」から。三女は、テサロニケ人への第一の手紙1章8節の「すなわち、主の言葉があなたがたから出て、ただマケドニアとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめらたので、これについては何も述べる必要はないほどである」からでした。

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(第一コリント3:6)ことを実感しております。
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天のマナ

2019年06月09日 | 天のマナ
 「自由にされていく」  
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、固く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)

 「皆さんは誰の言葉に縛られていますか?」。「縛られている」という表現はとても強い言葉です。しかし、実際、人は良い意味でも悪い意味でも、誰かの言葉によって縛られていることがよくあります。私は幼い時、体が小さくて寡黙でした。その私に母は、「お前は小さくても、やがて本田弘慈先生のように全日本をかけめぐる伝道者になるんだよ」と時々声をかけてくれました。母は私を励ます意味で語ったのでした。確かに小さい時は励まされましたが、成人になってはそれはプレッシャーになり、そこから自分を見ては落胆をしていました。両親からの言葉は、子供本人の捉え方にもよりますが、良い意味でも悪い意味でも子供に影響を与えます。そしてそれがその人の性質を作っていくと言っても過言ではないでしょう。ですから、親も子に対してどんな言葉をかけるか、子供は親の言葉をどのように受け止めていくかが問われます。もし幼い時に良い意味で捉えられず、その言葉に縛られているなら、今、捉え直すことが必要でしょう。また、成人になっても、同じように人の言葉によって縛られることがあります。しかし、幸いなことに私達クリスチャンは、イエスによってその縛りから解放されています。そしてさらに解放されいきます。イエスの真の言葉によって生きる幸いを得させられているからです。このことに立っていきましょう。
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天のマナ

2019年06月02日 | 天のマナ
「主に仕える聖徒たち」

 主の救いを受け、主の愛に応えて、主の体なる教会を愛して仕えて下さっている聖徒の方々に感謝いたします。誰が見ていようが見ていまいが、暑い時も寒い時も、評価を受けてもそうでなくても、時間をささげ、労をささげ、生涯をささげて、主を見て仕えて下さっている聖徒の方々がいてくださるので、教会は建て上げられいます。さまざまな奉仕に、それぞれの賜物が活かされ、主にささげられています。日曜日の午後も、グレース・ミッションや役員会にて、教会がさらに神の栄をあらわされすことができるようにと、話し合いがなされています。平日の働きをしつつ、その奉仕をして下さっていることに、敬意を持ちます。義務や義理では成すことができないことでしょう。主の救いを受け、主の愛を体験的に知り、その主の愛に感動し応えるところから、自発的に成されているのだと思います。奉仕の原点は、主の御愛に応えるところから始まることを、もう一度教えられています。
「その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。」(テモテへの第一の手紙1章14節)
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