静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2013年08月25日 | 天のマナ

「主に仕える姿は麗しい」

 東京東西キャンプに行ってきました。聖書から三回のメッセージを伝えました。子どもたちは柔らかい心をもって、神の福音を信じ受け入れていました。120名を超えるキャンプ、主を愛し子どもたちを愛する奉仕者の仕える姿勢は、とても麗しかったです。ある兄姉は、120名分の食事を二泊三日の間に6食を作り、ある兄姉は子どもたちを楽しませるゲーム、スポーツ、ハイキングを導き、また他の兄姉は、集会の奉仕や集会後のカウンセリングなど、よく準備しよく祈りました。中には、この暑いのに着ぐるみの中に入って賛美のダンスをする兄もいたり、毎回の食事の時、とてもユニークなキッチン博士というキャラクターになりきり、野菜の栄養の紹介をしていた姉もいました。どの奉仕も尊く、自分のできるものがささげられていました。主イエスがどんなに喜んでいるでしょうか。私達もなお喜ばれて行きましょう。

2013/8/25

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講壇の花

2013年08月25日 | 生花
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天のマナ

2013年08月18日 | 天のマナ

 「共に働き喜び」

 あるお父さんが自宅の庭をきれいにしていました。そこへ、まだ小さい息子が来て、お手伝いをしたいと願い出たのです。お父さんには、庭をきれいにする段取りがあり、時間も計算にいれて動いていましたが、息子を手伝わせることにしました。はりきった息子は、彼なりに一生懸命やっていましたが、誰が見てもお父さんの邪魔になっているようにしか見えませんでしたし、お父さんがあとでやり直さなければならないところもあるような状態でした。息子はある程度やり満足したらしく、お父さんを見る彼の顔は誇らげでありました。お父さんはその息子に「ありがとう」と言ったのです。

 時間は3倍かかるし、やり直さなくてはならない所もあるのに お父さんはなぜ嬉しかったのでしょうか。それは一緒に時間を過ごし、庭をきれいにしようとする同じ思いで労することができたからです。たとえ私達が未熟でも、主イエスは共に働きたいと願っていますし、共に働く私たちを喜んでくださるのです。

2013・8・18

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講壇の花

2013年08月18日 | 生花
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天のマナ

2013年08月11日 | 天のマナ

 「永遠のいのちとは」

 木が枝を張り、枝が実を結ばせるように、木の幹と枝はいのちの関係にあります。幹に繋がっている枝には、幹から水分や養分が流れ込み、枝に実を結ばせます。しかし、枝であっても幹に繋がっていないならば、いのちは流れ込まず実を結ばす枯れてしまいます。主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしつながっており、またわたしがその人とながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(ヨハネ15:5)と言われました。「永遠のいのち」もその一つの実であります。

 「永遠の命」とは何でしょうか。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17:3)。「知る」こととは、単なる知識でではなく、信じて繋がる生命的交わりのことであります。神こそ永遠のいのちであり、そのお方に繋がることによって、私たちのうちに神の永遠のいのちが流れ込むのです。永遠の神の国に永遠に生きることは、その結んだ一つの実でしかありません。他の結ぶ実もたくさんあり、将来だけにではなくこの時にも輝いていくのであります。

2013・8・11

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講壇の花

2013年08月11日 | 生花
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天のマナ

2013年08月04日 | 天のマナ

 「敵を愛する」

 人間が起こす戦争に勝利や敗戦はありません。戦争を始めた時点で、両方とも敗者であります。戦争をする両方は自分たちなりの大義を掲げます。しかし、それは人間の義であり、人間の義は時代、状況、立場、感情、最後には自分の欲によって変化していきます。

 私たちは、自分の義ではなく、永遠に変わらない神の義に立ち神の愛をもって生きていく者であります。主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と言われました。まさしく、主イエスはあの十字架上で、自らを十字架につける者達を愛し、「父よ、彼らをゆるして下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34)と彼らのために祈られたのです。いや、時代を超えて罪深い私達を愛し祈られたのです。

 ドイツの物理学者、哲学者カール・フリードリヒ・フォン・ヴァゼッカーは、次のように説明しました。「敵を愛するとは、敵を理解するように努めること、それは、彼らの状況に身を置き、彼らの立場から世界を見、彼らの関心や希望、彼らの不安や傷ついた心を知るように努力することである。」

2013・8・4

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