静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年09月30日 | 説教要約

「神の与える新しい人生」 ヨハネによる福音書3章1~15節

 人が神の国を見る(いただく、入る)のにはどうしたらよいのでしょうか。ユダヤ人の指導者で、宗教的にも社会的にも地位も名誉も財もあり、人びとから尊敬を受けていたニコデモが、主イエスのもとに来ました。人間的には満たされているようにみえたニコデモも、今のままでは神の国入ることができると思えなかったのです。

 イエスは彼に言いました。「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)。「新しく」とは「上から」、つまり「神のよって」ということであります。肉体がもう一度生まれるのではなく、神から離れ死んでいる霊が、神に立ち返り生きるということです。イエスは、続けて「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。「霊」とは、6節から聖霊のことであります。「水」とは、「洗礼」とも言われますが、イエスの与える水(ヨハネ4:14)にもあるように、それはイエスによる福音(十字架と復活による救い)、イエスご自身を指すのです。

 人がこの世の生涯を終えて、神の国に入りたいならば、また、この世の生涯の中で神の国の恵みに生きたいならば、イエスと聖霊の神による救いを受けることなのであります。あなたもこの神が与える新しい人生を歩んで生きましょう。

2012/9/30 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年09月30日 | 天のマナ

 「感謝と喜びを今主の前に」    

 我が家のトイレに掛けてある小さいカレンダーに、「感謝の敵を退ける」という次のような文章が記され、その中の一部を下にまとめて記したいと思います。

1.過剰な『欲』を退けよう。欲と感謝は共存できません。ないものを見て不平を言うのはやめて、あるもので十分と考え、感謝しましょう。

2.『比較意識』を取り除こう。私たちは、自分にあるものを見ずに、他人と比較することに関心を注いでしまいがちです。ですから、私たちは神の言葉を思い出す必要があります。『あなたはわたし(神)の愛する子。わたし(神)が造った最高傑作品だ』。

3.『心配』するのはやめよう。人が心配する内容の90%は、すでに過ぎてしまった過去や、まだ起きていない未来に関するものです。心配は心も魂も萎縮させますが、感謝は心に楽しみと喜びを与えます。」

   ~♪雲が雨で満ちると 地に雨が降るように 感謝が満ちると 主の平安が訪れる♪~

 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)

2012/9/30

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講壇の花

2012年09月30日 | 生花
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天のマナ

2012年09月23日 | 天のマナ

「神の素晴らしさがあらわされる」    

「どうして学校に行って勉強しなくてはいけないの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか?

 ある方が、「学生の本分は学習・努力することです。社会に出るために、正しい判断力をつけるには、まず知識を蓄えることです。」と新聞に投稿したそうです。私は、「なるほど」と思いました。

 さらに私は、先週も引用させてもらいました曽野綾子さんの「学校は知識を得ると共に、人生を知り、苦難に耐えて生き抜く心身を鍛え、その技術を覚え、多様な人々と共生する社会というものの雛形を体験するところなのである。」という文章を読み、「なるほど」と思いました。単に知識だけではなく、心身を鍛え共に生きることを経験する場であるということでしょう。

 私は、上記の内容に、「主なる神が、あなたを通して神の素晴らしさをあらわすためである」と付け加えたいのであります。

 「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(第一コリント10章31節)。

2012/8/23

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主日礼拝説教要約

2012年09月23日 | 説教要約

「神に信頼する」 詩篇62篇1~12節

 この詩篇は、「故人の信頼」をあらわした詩で、アブシャロムに王座を追われた時のダビデの詩ではないかと言われています。

Ⅰ 決して動かされない

 「人を尊い地位から落とそう」とあるように、ダビデは王座を追われ、その中で「傾いた石垣」「揺り動くまがき」とあるように、自らをそのように感じていました。しかし、神に目を向けた時、彼は、決して動かされないことを感じ確信し告白したのです。

Ⅱ 神こそ我が岩

 彼は、アブシャロムによって民衆(低き人)は騙され、彼の側近でさえも(高き人)も操られ、人に頼ることの空しさを感じ、人ではなく神に頼ったからです。その神こそ岩である。「ただ」「こそ」との繰り返しは、Only God(神のみ)である確信の告白であり信頼であります。

 私達は神を見上げ神に信頼しているでしょうか。ただただ神により頼むものでありたいのです。

2012/9/23 説教者 杉本守

 

 

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講壇の花

2012年09月23日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年09月16日 | 説教要約

「み言葉を実行しなさい」 マタイによる福音書23章1~12節

 「先生、教師と呼ばれてはならない」と主イエスがおっしゃったことはどういうことでしょうか。

Ⅰ 神の御心から離れた者たち

 モーセの律法を朗読し解き明かす立場であった律法学者やパリサイ人たちは、モーセの座にありましたが、その言行は不一致でありました。主イエスは、弟子達や群集に、彼らが語る神の言葉である律法に対しては守りなさいと言われましたが、彼らの行いには倣うなと言われました。彼らは、先生と呼ばれることを好み、自らに対しての彼らの行動は、敬虔さをアピールした演出であり、人に対しては、律法にない言い伝えの規定を加え、人々に重荷を負わせ、共に歩もうともしないものだからでした。彼らは神の御心から離れ、神のさばきを受ける、「彼らはもっともきびしいさばきを受けるであろう」(マルコ12:40)とも記されています。

Ⅱ 神の御心に適った者

 「先生と呼ばれてはならない」と主イエス様は言われました。これは、教師という仕事につくことを禁じたり、「先生」という称号を用いることに反対したのではなく、上記したような律法学者のように、「先生」と呼ばれることを好み、自分は何か偉いもののように勘違いし、高慢にならないように警告し戒めているのであります。真の先生は、真の父は、真の教師は、主であることを心に明記し、いつもへりくだり仕える者であれと言われているのです。

 まさしく、主イエスは神のみ心に適った方でした。神の言葉を語り、それを行い、共に歩んでくださっている方です。私たちも、主イエスに倣って、み言葉を行う仕える者になりましょう。

2012/9/16 説教者 杉本守

 

 

 

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天のマナ

2012年09月16日 | 天のマナ

 「人間と動物の違い」    

 人間と動物の違いは何だろうか。多くあげることができるが、その一つは、神が人間に与えられた「永遠を思う思い」(伝道の書3:11)である。

 もう一つあげるなら、「人間は利害を超えた行動をすることができる」ことである。動物は自分が得になることしかしないし、自分の欲望に従って生きる。しかし、人間は違う。

 曽野綾子さんは、「ただ一人の個性を創るために」という本の中で、「人間になるためには、利害を離れて、人のために働くことのできる存在にならなければならない。損になることのできる人にならなければならない。それが人間の資格だからだ。そしてそれは、不思議な見返りを伴っている。人の役に立つということは、金銭的、時間的、労力的な面でだけ計算すれば、損をすることになるかもしれないが、精神的には、それを補って余りある充足感が残るのが普通である」と記している。

 本日のみ言葉に聴き入り、神に仕え人に仕える者でありたい。

2012/9/16

 

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講壇の花

2012年09月16日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年09月09日 | 説教要約

「神に向く時」  詩篇61篇1~8節

 ダビデの生涯は、波乱万丈でした。しかし、その中でも一貫していた彼の態度は、主に呼ばわることでした。

Ⅰ 地の果てから

 この詩の背景は、第二サムエル記15章で、ダビデが息子アブシャロムから反乱を受け、王座を追われ都を落ちた時であろうと言われます。彼は、ヨルダン川を渡り、ひとまず命拾いはしましたが、主が約束してくださった地から離れてしまい、彼の心は崩れ落ち、衰え果てました。彼は、安全とはいえ、単なる都から距離が遠くというより、霊的に神の約束、守りから離れていることを「地の果て」と言い表したのです。

Ⅱ 御手の中に

 彼はここでも主に呼ばわります。まず彼が祈ったことは、王座の回復ではなく、主の御手にあること霊的な回復(高い岩)でありました。主なる神こそ、避け所、堅固なやぐらであるからです。そして次に祈ったことは、今までの神の祝福を思い返しながら再び王座を回復することでした。

 私たちがたとえ地の果てにいるように感じるときでも、神に呼ばわるならば、主は高い岩にのぼらせ、主のみわざを体験させてくださるのです。

2012/9/9 説教者 杉本守

 

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