静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年01月28日 | 天のマナ
「救われた者の最大の関心事」

 クリスチャンの最大の関心事は、「神の御旨を行っているか、神に従っているか、神の栄光をあらわしているのか」ということです。救われる前は、自分をどのようにあらわし認めてもらうかという自己顕示、自分の願いをどのように達成しようかという自己達成、自分の欲望をいかに満足させるかという自己満足に生きていました。神の救いを受けたクリスチャンは、自分の存在の意義や目的がはっきりとわかりましたし、神によって心(霊)が満たさるので、自分中心から神に中心に存在や思いが変えられ移されている(価値観の変革)のです。きよめられる、きよめられ続ける、きよめが深くされるということは、このことの徹底であろうと思います。我力(自我)では到底、この関心事を行うことはできません。自我がきよめられ、内住キリストによってなされていくほかありません。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19~20)
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天のマナ

2018年01月21日 | 天のマナ
「主の恵みの分かち合うことの幸い」

 先週、ある姉妹のお宅で新年の合同セルが開かれ、16名が集い今年の与えられたみ言葉や今年の抱負を分かち合いました。私は、恵みの分かち合いで、兄姉が語るみ言葉を聴くのが楽しみで仕方がありません。「主よ、兄姉を通して私にみ言葉を下さるのですね」と。また、その兄姉に注がれてる主の愛と慰めと励まし、またなされている主の導きや主のわざを聴くのも楽しみです。この新年の合同セルでも沢山の主の恵みをいただきました。一つを分かち合わせていただきます。

 ある兄弟は、人が見ていてもいなくても神の前に、いつも細かく丁寧な奉仕をされます。そこまでしなくてもと私は思ってしまうのですが、その兄弟の性格かな~としか考えていませんでした。しかし、中心の理由がわかりました。それはその兄弟の信仰の姿勢でありました。その兄弟は、「私の生涯のみ言葉は、『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。』(コロサイ3:23)です。このみ言葉を心がけていますし、今年もそうしたいです」と言われました。教会内だけではなく、今は町内会の清掃の担当で、地域の道や公園などをきれいにしているとのことでした。このみ言葉に生きられる者でありたいです。兄弟姉妹の献身的なご奉仕に感謝します。
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天のマナ

2018年01月13日 | 天のマナ
「クリスチャンの死は尊い」
 一般的には「死」について、「恐れ、不安、終わり、絶望など」と思われていますが、神のひとり子であるイエスを救い主と信じ、罪赦され、義とせられ、神の子とされ、永遠の命をいただいたクリスチャン自身の「死」は、「尊い」ことであります。
「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」(詩篇116篇15節)、新改訳2017では、「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。」と訳されています。
 なぜ、神の前に尊いのでしょうか。二つだけ挙げるならば、一つ目は、神から与えられた地上での使命を全うしたからであります。神から地上での命を与えられた私達には使命があり、それを成し遂げた時に、わたしたちは天に召されるからです。二つ目は、主イエスが用意された神の神の国に入れられるからであります。主イエスを救い主と信じ告白した時、私達は神の国の国籍をいただき、神の国の命の書に名が記され、永遠の命を受けているので、神の国に入るのです。それは、神の目に尊いことであると同時に、私達クリスチャンにとっても尊いことです。もちろん、地上での家族や親しい人との一時的な別れは悲しみや寂しさをおぼえますが、それをはるかにこえた、充実感と喜び、神の国での再会に希望を抱くのですから。
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天のマナ

2018年01月07日 | 天のマナ
「早天祈祷会の恵み」
 毎週土曜日朝6:30~7:00に、早天祈祷会が行われています。内容は、「賛美、祈祷、聖書朗読(今はガラテヤ書)、静まりと黙想の朝に朗読、祈祷課題を祈る合う」です。昨日は、「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」(ガラテヤ1:1)のみ言葉を中心に神の恵みをいただき祈りました。パウロは反キリスト者で、クリスチャンを迫害していた者でしたが、ダマスコへの途上で、光の中にあらわれた復活の主イエスに出会い、回心し救われキリストを伝える宣教師となりました。神の語りかけに対して、信じますと答えたことから信仰が始まったのです。私達は、パウロほどに強烈な経験がなくても、私達の回心の経験も、パウロと同じ神からのものとして受け止め、生まれ変わりの日時を明確に覚えている人も、そうでない人も、新生は神によるのだと受け止めていくのです。
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