静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2014年02月23日 | 天のマナ

 「主を信頼し踏み出す」        

 「信仰によってまず第一歩を踏み出してください。階段全てを見渡す必要はありません。ただ第一歩を踏み出してください。」とのこの言葉は、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として、アメリカの人種差別問題に取り組んだマーティン・ルーサー・キング牧師のものであります。彼は1964年にノーベル平和賞も受賞しました。

 1968年4月4日の暗殺される前日、彼が約束の地カナンを見るモーセのように、申命記32章より最後の説教を語りました。その終わりに、「神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。」

 私たちは多くのことを考え過ぎたり、全部理解しないと踏み出さず、結局踏みとどまっているのないでしょうか。信仰による第一歩を踏み出しましょう。神への信仰と信頼の目が開かれているならば、それで十分なはずです。

2014/2/23

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主日礼拝説教要約

2014年02月23日 | 説教要約

「苦しい時こそ輝く信仰」 詩篇88篇1~18節

「しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈りをあなたのみ前にささげます。」 (詩篇88篇13節)

 この詩篇は、全詩篇の中でも最も深い悩みと悲しみに満ちたものであります。後に、キリストの苦難を想起するために、しばしば受難日に読まれるようになりました。

Ⅰ 絶望感の中で

 詩人は自分は死人のようであると語っています。死ぬ際まで追い込まれ、いや、もう墓穴に埋葬され死体となっているようだと告白しています。そして、それは神が私になされたのだと。神は時に人間の理解を越えたことをなされ、人間はその聖なる目的を知ることができないほど神は深く広いお方なのである。

Ⅱ 主が唯一の望み

 そのような中で、詩人は神への叫びをしています。息も絶え絶えの中で祈り続けます。祈りへの明確な応答がまだないとしても、信じ続けています。それは詩人の神への信頼があり、神こそが唯一の望みであることを知っているからであります。主イエスも復活の朝の前に、十字架上で叫びました。深遠な暗闇を体験されました。この詩篇の詩人と最も深い闇から神に向かって祈られたイエスの姿が重なります。

 主イエスをよみがえらされた神は、私たちをも生き返らせてくださるのです。信仰を輝かさせていただきましょう。

2014/2/23 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2014年02月23日 | 生花
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天のマナ

2014年02月16日 | 天のマナ

「信仰と信仰生活」                        

 「ちいろば」と呼ばれていた榎本保郎牧師は、「信仰とは、神から現実を見る態度である」と述べています。自分の視点ではなく、誰かの視点でなく、現実の一つ一つを神の視点で見させていただくのです。神の視点とは、御言葉であります。榎本牧師は続けて、「信仰生活とは、神を信じて生きてくことではない。神の言葉に従って生きていくことである」と語られました。信仰生活とは実際的な歩みであります。それは漠然と神を信じていくのではなく、神を信じて生きていくことが具体的にあらわされていくことです。まさしくそれは、神の言葉に従うことの連続であります。私達の信仰が、観念的ではなく、神の言葉に従うということが具体的に、日々の歩みの中であらわされていくのです。「

 神を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とのみ言葉に従う時、私たち一人一人は具体的にどのような行動をしていくのでしょうか。神への愛は、礼拝、御言葉に親しむ、祈り、奉仕、献金、伝道などでしょう。人への愛は、あいさつ、共にいること、共に祈ること、手紙や電話、生かす言葉、与える行動などでしょう。

2014・2・16

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主日礼拝説教要約

2014年02月16日 | 説教要約

「キリストに属する者」 使徒行伝11章19~30節

「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」(26)

 アンテオケにて、ギリシャ人にも福音が伝わり、彼らが主イエスを救い主と信じて救われていきました。このことがエルサレムの教会に伝わり、エルサレムの教会はバルナバをアンテオケに遣わしました。

Ⅰ 神に仕える僕の働き

 ユダヤ教と何のかかわりもない全くの異邦人が救われている状況をみて、バルナバは伝統や慣例に縛れることがなく、彼らに成された神の救いを喜びました。そして、心を堅く保って、常に主にとどまるように勧めました。それは、一時的な感情の高揚でもなく、律法的な理解でもなく、ただ真実に主に仕えていくことでした。そして、バルナバは、彼らを育成する必要を強く思い、サウロ(パウロ)を引き出し用いたのでした。それはアンテオケのクリスチャンにとってもサウロにとっても良い導きとなりました。

Ⅱ 神に属する者たち

 アンテオケ教会の人たちは、周囲の人々から、「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。それは、彼らが「キリスト、キリスト」と口を開けば、イエス様のことを話していたからに違いありません。クリスチャンとは、「キリストに属する者」のことです。主イエスを救い主と信じた者は、キリストに属しています。その姿は、アンテオケのクリスチャンから見ることができます。それは、母教会なるエルサレムの教会の困窮を助ける愛の行いをいたします。さらに、異邦人伝道の拠点となり、パウロを支え、福音を伝えるのです。

 キリストに属する者とされたことを自覚し、誇りを持ち、キリストの栄光をあらわせていただきましょう。

2014/2/16 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2014年02月16日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年02月09日 | 説教要約

「いのちの泉なるキリスト」 詩篇87篇1~7節

 この詩篇は、神の都シオンの賛歌であります。なぜ、エルサレムが賛歌されているのでしょうか?そしてエルサレムの未来の預言はどういうものでしょうか?

Ⅰ 神の臨在の場である都

 エルサレムの都は、主がダビデに命じて建てられたものであり、主が基をすえられたのであります。そして主は、ソロモンに神殿を建てさせ、主は臨在されたのであります。このエルサレムの都において、歴史の中で主は御わざをなし、主を愛する者は主を礼拝したのです。だから、賛歌されているのです。

Ⅱ 神の都の未来

 4節にあるように、イスラエルを取り囲んでいる異邦の諸国が、「わたしも、シオンにて生れた」と言う日が来るというのです。それは異邦人がエルサレムに集まり、救い主イエスの救いに与り、神をほめたたえるということであります。これは現在も実現されていることであり、再臨の時には、新しいエルサレムがくだってきてに完成されるのです。

 私たちは、いのちの泉なる主イエスによって、新しく生れた者たちであり国籍は天にあります。永遠の天のエルサレムを待ち望み、歩んでいきましょう。

2014.2.9 説教者 杉本守

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天のマナ

2014年02月09日 | 天のマナ

 「オリンピック始まる」                 

 2月6日に開会式よりも早く競技が始まり、2014年の冬季ソチオリンピックが開催されました。過去のオリンピックを振り返ると、神は多くのクリスチャン達を通して、ご自身の栄光を豊かにあらわしています。有名なウサイン・ボルトもプロテスタントのクリスチャンであり、男子100mの決勝で金メダル、北京大会と合わせて2連覇を果たしました。男子200m決勝でも金メダルでオリンピック史上初となる2大会連続100m・200m二冠を達成した。また4×100メートルリレーでも世界新記録で金メダルを獲得した。彼は、メダル獲得後、神に感謝し、ツイッターで次のようにコメントしています。「私は神が私のためにしてくださったすべてのことを神に感謝したい。なぜなら神なしではこれらすべては不可能であったからだ」と。

もちろん、金メダルだけが主の栄光をあらわすことではありません。主にあって精一杯、置かれた場でなす時、神は栄光をあらわして下さるのです。「栄光は主のもの、恥は我がもの」とあるように、私達クリスチャンが、ただ願うことは主の栄光があらわれることです。

2014・2・9

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講壇の花

2014年02月09日 | 生花
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天のマナ

2014年02月02日 | 天のマナ

「赦すこと」  

 ナルニア物語を書いた神学者C・Sルイスは、次のように「赦す」ということを語っています。「赦しとは、公平さに関する人間の常識を超えたもので、まったく容認できないものを容認することだ」。私も彼の言葉に同感です。理不尽なことを言われたりされたりする、「どうして」という被害にあうとき、それらは公平さに関して人間の常識を超えたものであり、容認できないことであります。しかし、「赦し」とは、驚くことにそれを容認してしまうのです。彼は、「クリスチャンとは、赦し難い人々を赦すことである。神があなたの中にある赦し難いものを赦してくださったからである」と続けました。

 隣人をまた自分を赦すことができる人は、神によって赦されていることを本当に体験した人であります。主イエス・キリストの十字架での犠牲により、どんなに主なる神は私たちを赦し受け入れてくださっているのでしょうか。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」(Ⅰヨハネ3:1)

2014/2/2

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