静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2009年04月26日 | 説教要約
「不安からの解放」 使徒行伝24章22~27節

 カイザリヤにて、ローマの総督ペリクスに個人伝道をするパウロの記事から、主のみ言葉を共にいただきましょう。

Ⅰ 神を求める姿勢
 総督ペリクスは、キリスト教に興味を持ち、パウロを何度も呼び出しては、キリストの信仰に対する話をさせたのでありました。しかし、彼の求めは真剣なものではなく、自分中心の知的好奇心であり、パウロからはお金を、ユダヤ人からは歓心を受けようとしていたものでした。

Ⅱ 神のみ言葉を受け入れる
 パウロは、ペリクスに「正義、節制、未来の裁き」を語りました。「神の言は生きていて、力があり、もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」(ヘブル4:12)とあるように、神の言葉は、ペリクスの心と思いと行動と言葉をさぐり、彼は自分の罪を示されたのでした。しかし、彼は自分が罪人と認めず悔い改めず、心を閉ざして救いの機会を自ら遠ざけてしまったのでした。

 教会に来て聖書を読み礼拝に出ると、誰でも気がつかされることがあります。それは、「自分が神から離れた罪人であるということ」です。この認罪が、罪からの救いに至る大切なステップであるのです。
 ペリクスは罪を持ったまま歩み不安を持ち続けました。しかし、罪を認め、悔い改め、主イエスを救い主と信じ、罪赦された者はなんと幸いでしょうか。平安が内に満ちるからであります。

2009・4・26 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年04月26日 | 天のマナ
 「神の国への歩み」
 
 「一日の終わるのが早い、一週間の終わるのが早い」と時々、私達はこの言葉を口にします。そして、今日も、今週も特に代わり映えのない日、週であったと思います。または、充実さがなく、衰えを感じる日や週だったと思うかも知れません。しかし、一日一日が特別の出来事のない通常の日であっても、喜ばしいことがない日であっても、クリスチャンにとっての日々は、確実に神の国に向けての、神の国に近づく一日一日であります。それは確かな事です。

 毎週土曜日朝6時30分からの早天祈祷会に、祈りの器なる一人の姉妹が毎週来てくださっています。その中で「谷間の泉」(カウマン夫人著)が読まれ共に祈ります。昨日の箇所に次のような文章がありました。

 「人生は長い旅、この地上にはわたしたちの(永遠の)憩いの場所はない。毎日少しずつわたしたちは、ふるさとの家である神の都に近づく。砂漠を一歩一歩行進する時、あなた(主イエス)は喜んで生涯の友となられる。」 

 私達の歩みは神の国に向けられ、確実に近づいていることを知っておられるでしょうか。

 「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであっ た。」(ヘブル11:16)

2009・4・26
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講壇の花

2009年04月26日 | 生花
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天のマナ

2009年04月19日 | 天のマナ
 「新しい命に生かされる」 エゼキエル36章26節

 私達が、主イエスを救い主と心で信じ、口で告白した時、神は私達の罪を赦し、私達を義とし、神の子とし、永遠の命を与えたのであります。聖書にそう記されているのです。

 では、「永遠の命」とはなんでしょうか。二つのことが言えるでしょう。一つは、「肉体は土に返りますが、主イエスを信じた者は、栄光の永遠の体が用意され、永遠の神の国に住まわせていただける」と言うことであります。
 二つ目に、「永遠の命とは、霊的な命」であります。それは、「神から離れ、神との交わりを失っていた者が、神との関係を再び持たせていただき、神の溢れる命が私達の霊に魂に流れ込み、留まり生かす」ということです。

 私達は、クリスチャンとして神の御心にかない、正しく愛に満ちた日々の歩みをしたいと願っています。しかし、それは自分の力や経験ではできないこともわかっています。では、どうしたらそれができるか。主イエスを信じた時に私達がいただいた永遠の命(新しい霊的命)が、私達にそれをなさせるのであります。このいただいた命に生かされようではありませんか。

2009/4/19
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主日礼拝説教要約

2009年04月19日 | 説教要約
「万事が益となる」使徒行伝23章11~24節

 エルサレムにいたパウロは、迫害者達が訴える中、議会で弁明をいたします。弁明というより、救い主イエスについての証しであります。

Ⅰ キリストを証しするビジョン
 神から与えられたパウロのビジョンは、世界の異邦人宣教でありました。しかし、パウロの暗殺計画が権力者達によって進められていたのです。ビジョンが砕かれそうになる中、神はパウロを守り道を開くのでした。

Ⅱ ビジョンを実現させてくださる神
 神はパウロに「しっかりしなさい」と語りかけます。この言葉は、命令形でサルセイであり、「勇気を出しなさい」「元気を出しなさい」とも訳せます。「あなたは、ローマで主イエスがキリストであることを証しする」と告げられます。福音をローマで語るのは主の意志であること、必ずなされることをパウロは確信するのでした。
 神の約束は実現します。不思議な神のわざが起こります。それは、ローマ兵470名によって、パウロは護衛されカイザリヤへ、そしてローマへと導かれるのです。

 私達は、ビジョンを持っているでしょうか。ビジョンは夢とは違います。夢は、自分の願いでありますが、ビジョンは、神の御心であります。神の助けにより、神の御心であるビジョンをなさせていただきたいのです。

2009・5・19 説教者 杉本守
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講壇の花

2009年04月19日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年04月12日 | 説教要約
「復活された主イエス」 ルカによる福音書24章1~12節

復活祭のこの日、主イエスの復活の記事から、共に主の恵みを受けましょう。

Ⅰ 主イエスの復活の事実
 人類の罪を負い、十字架にかかり、贖いを成し遂げられた主イエスは、死なれ墓に葬られました。十字架に付けた者達も、弟子達も、誰もがキリスト教はおしまいと思ったのでありました。しかし、主イエスは、十字架前に何度も弟子達に言われたいたように、三日目に死を打ち破り復活されたのでした。復活の朝、女性達は主イエスがおさめられた墓に行きましたが、すでに墓は空で、神の御使いが主イエスがよみがえられたことを語られたのでした。そして、復活の主イエスは、40日間弟子達を含めた500人の前にあらわれたのでした。復活の主イエスに出会った弟子達は変えられて、福音を命をかけて大胆に伝えました。復活は事実でありました。
 
Ⅱ 主イエスを救い主と信じる者は
 死に勝利した主イエスは、父なる神の右の座にて、今も、永遠に生きておられます。そこで、主イエスを救い主と信じる者のために、場所を用意し、とりなしの祈りをしてくださっているのです。
 主イエスを信じた者にとって、「死」は恐れでも失望でもありません。父なる神が主イエスをよみがえらせたように、主イエスを信じる者を父なる神はよみがえらせて、神の国に入れたもうからです。罪ゆるされ義とせられ、神の国に確実に入れていただける確信を得ている者はなんと幸いでしょうか。「死」は、神の国に入る単なる通過点に過ぎず、平安と希望にかえられるのです。
 神を信じた者がお墓に行くのは、先に召された方々と、「また神の国で再会する」ということを確認するためのものであります。

 死に打ち勝たれた主イエス、その福音にあずかっている私達、この喜びにあふれましょう。

2009/4/12 説教者 杉本 守
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天のマナ

2009年04月12日 | 天のマナ
 「神を求める思いから、神と出会う経験へ」 
    
 日本でテコンドーというスポーツを有名にした、日本テコンドー界の功労者、オリンピック三大会(シドニー、アテネ、北京)に連続出場を果たした岡本さんは、多くの人が知っていると思います。クリスチャン新聞「福音版」4月号に、彼女がクリスチャンになった信仰の証詞が載せられていました。

 人間は心の奥底に、魂の求めとして、誰もが神を求める思いを持っているのではないでしょうか。それは、神が人間を造られた時に、神を思い求める思いを人間に入れられたからです。聖書の中に、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書3章11節)とあります。古代でも中世でも現代でも、どの時代でも、先進国でも発展途上国でもアマゾンの奥地でも、どの地域でも、人間は永遠なる神を求めているのです。

 岡本さんは、神を求める思いから、神と出会う経験へと導かれました。神はあなたに出会おうとされています。私達も、次のみ言葉のごとくにありたいのです。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12章1、13節)

2009/4/12
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講壇の花

2009年04月12日 | 生花
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天のマナ

2009年04月05日 | 天のマナ
 「いつでもどこでも誰にでも信仰告白を」 
    
 今年の大島春キャンプのテーマは、「信仰告白」でした。小学6年~社会人まで、主イエスの救いを受けた者が、救いの確信を得、救いの御言葉を確認し、自分の体験した救いを自分の言葉で、キャンドル・ファイヤーの時に告白いたしました。それは、聖書にある救いの説明ではなく、自らが体験したことを表明したものでした。「主イエスを救い主と信じる前、信じた時、信じた後」というふうに項目を付けた告白は、聞く者にもわかりやすく、はっきりと聞き取ることができました。

 一人の中学生の信仰告白が特に心に残っています。彼は、クリスチャン・ホームで小さい時から教会学校に通っていました。しかし、主イエスを信じる前は、その時間は苦痛でしかないものでした。小学校4年生の夏の奥多摩キャンプで、本当に自分の罪が示され悔改め、ヨハネ1:12の御言葉により、主イエスを自分の救い主とて信じました。心が軽くなった感じがし、それからは、教会の先生の話を聞くのが楽しみになったようです。そして、「今では、安心が心にあり、本当に神さまが一緒にいるんだなあと感じている」と語ってくれました。信仰告白の文集が今週に出されます。読みたい方は牧師まで。

2009/4/5
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