静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2015年10月25日 | 天のマナ
 「主の言葉は平安を与える」
 
 祖父母、両親、そして私と、牧師三代目です。幼い頃、毎年、夏休みなると兄弟たちと共に祖父母の所に行かされ、ひと夏、過ごしました。祖父は、私たちを風呂に入れながら、詩篇19篇7~10節のみ言葉からできた賛美をよく歌ってくれました。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(7、10節)。祖父の面影は、だんだん薄れていきますが、今でもこのみ言葉による賛美を憶えています。「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることはない」(マタイ24:35)とある通りです。み言葉は私の心を捉えて離さず、甘い蜜よりはるかに私を潤し平安を与え、恐れや不安を押し出すのです。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」(コロサイ人への手紙3章16節)。やはり、み言葉です。今週もみ言葉によって霊を満たして歩みましょう。

2015・10・25
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天のマナ

2015年10月18日 | 天のマナ
 「神の家族なのである」

 先週、教会愛修会が伊豆熱川で持たれ、13名が参加いたしました。「神の家族の喜び」というテーマで、主イエスを中心としたとても幸いな交わりの時でした。おいしいバイキングの夕食、癒される温泉、ホテルの目の前に広がる太平洋と地平線から昇る朝日、行き帰りに立ち寄る観光地のお土産屋さんでの買い物、神の家族の霊的な交わり(賛美、分かち合い、祈り)は、楽しみことができました。特に、分かち合いの時は、本日のメッセージのみ言葉そのものでありました。

 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)が開かれ、神の家族とは、分かち合う家族であり、共感し受け止めあう家族であることが語られ、一人一人が、今まで楽しかったこと、悲しく辛かったことを紙に記し、さらに、その時、イエス様がどんなことを自分に語っておられるか、おられたのかを加え、分かち合いました。その場にイエス様がおられ語られていたことを深く感じ、分かち合いをする一人一人が、「そうだねー、本当にそうだねー」と霊的な恵みをたくさんいただきました。

2015・10・18
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講壇の花

2015年10月18日 | 生花
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天のマナ

2015年10月11日 | 天のマナ
 「今日までそして明日から」という静岡県の牧師さんのブログより抜粋の一部

 「ペットのハムスターが死んだんです。天国に行けるようにお祈りしてください。」泣きながら頼む女の子でした。「そういうお祈りは聖書にないんだけれども、まあいらっしゃい」と言うと、彼女は死んだハムスターをもってやってきました。私は聖書(詩篇104)を読み、「ペットが死んだ」と題する祈りを一緒に祈ってあげました(辻 宣道「その時の祈り」日本キリスト教団出版局)。すると泣きじゃくりながらも少し慰められた様子で帰って行きました。ペットは家族の一員のように共に住み、単なるモノとは違う特別な意味をもっています。死んだからといって廃棄処分にするには忍びません。心を込めた送り方があっても良さそうです。せめて聖書個所と讃美歌と祈りの指針があっても良いと思いました。もちろん、これは供養とか天国へ行くための祈願ではなく、あくまでもペットを通して幸せを与えてくれた神への感謝と、ペットを失って悲しむ心のいやしを祈るものです。・・・それにしても、ペットは天国に行くのでしょうか。聖書はそれについて何も述べていません。だから私にも答えが分かりません。ただ、「そんなこと心配しなさんな。死んだ『罪なき』動物を創造主は悪いようにはなさらないよ」という声が聖書から聞こえてくるような気がしました。

2015.10.11
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講壇の花

2015年10月11日 | 生花
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天のマナ

2015年10月04日 | 天のマナ
 「キリストの言葉に聞く信仰」      

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ人への手紙10章17節)

 先週、埼玉県で開催された教団主催の「説教セミナー」に行かせていただきました。81歳になる村上宣道牧師が情熱をもって、上記のみ言葉から語って下さいました。
 「信仰は信じることから始まるのではない。信仰は聞くことから始まるのである。」と何度も語られました。もし、信仰が信じることから始まるなら、何でも信じれば信仰となり、独断的になります。たとえば、「イワシの頭も信心から(一旦信じてしまえば、どんなものでもありがたく思えるということ)」になってしまいます。聖書はそうは言いません。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」と。信仰は聞くことから始まる。何を、誰の言葉を聞くのか、それは主イエスの言葉、神の言葉なる聖書を聞くことです。信仰がずれてしまわないように、毎日、毎週、み言葉に聞くことが大切です。村上牧師は続けて、説教も語ることから始まるのではなく、主イエスの聞くことから始まる」と語られました。今日も、共にみ言葉に聴き入りましょう。

2015・10・4
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