静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年03月25日 | 天のマナ
「あなたの名を呼んだ」

 「親にとって次のうち、子供にされる一番辛い態度は何でしょうか?①反抗②過度な依存③無視」。う~ん、どれも辛いですね。しかし、やはり③と答えるでしょうか。反抗と過度な依存は良いとは言えませんが、親を意識しています。しかし、無視は親の存在さえも認めていないということになります。ですので一番辛いのではないでしょうか。

 毎日、私達は主イエス様をどれだけ意識していて、その呼びかけに応え交わっているでしょうか。目に見えないからいないのではなく、霊なる方であるので肉眼では見えませんが、目の前におられる復活の主イエス、毎朝「起きよ。おはよう。わたしの愛する子よ」と語りかけて下さる主イエス、共に歩んでくださる主イエスに対してであります。

「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ書43章1節)

 毎日、主イエス様の呼びかけに応え、主イエス様と霊の交わりをいたしましょう。
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天のマナ

2018年03月18日 | 天のマナ
 「主イエスの十字架をおぼえて」

 クリスマス、十字架、イースターなどの時、講壇に活けられる花は、メッセージ性があることを知ります。本日の花も十字架をモチーフ(フランス語で「主題」)にしたものです。礼拝後、よくご覧ください。活けて下さった姉妹が、十字架のイエス様を思い、十字架の意味を考え、私のためという信仰をあらわして下さいました。カラタチの枝で十字架を、そのとげはいばらの冠と十字架の苦しみを、周りの赤いガーベラと赤いバラは主イエスの血汐、血汐それは命、わたしに命を注ぎ与えたことをあらわしています。
 
 年度末で忙しい中にありますが、自宅で十字架をおぼえ黙想の時を持ちましょう。十字架の主イエスを思い、十字架の意味(誰の為に、何のために)を考え、十字架の箇所を読み黙想いたしましょう。主イエスが十字架の傷の跡がある御手を広げて、抱き寄せ包んで下さるのを経験することに違いありません。
 
 「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力であ る。」(コリント人への第一の手紙1章18節)
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天のマナ

2018年03月11日 | 天のマナ
「十字架によって贖われた者として」

 先週の礼拝説教を講壇で取り次ぎながら、教えられました。それは、ロバの子を解いて行こうとした弟子たちに、持ち主らが「そのろばの子を解いて、どうするのか」と言いました。主イエスは、彼らが「なぜ、そんな事をするのか」と言うと弟子たちに前もって伝えていました。
弟子たちが主イエスの言葉「主がお入り用なのです」と応えた時、彼らは理解しロバの子を渡したのでした。この言葉のやり取りの中で、主イエスと彼らの間の関係がどれほどのものかが問われています。ロバの子を渡したことから、麗しい豊かな関係でありました。

 時に、神が私になされることや語られることが十分理解できずに、「なぜ、どうして」と問いますが、続く主の言葉「主イエスがお入り用なのです」に、今度は私が主イエスと私の関係の深さを問われるのです。その応えは、十字架の愛を体験している者として、「わかりました」と献身し、時には握っているものを手渡し、時には重荷を負い主の後を進むのです。
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天のマナ

2018年03月04日 | 天のマナ
「主の御心であるとのみ言葉による信仰の確信」     

 先週、「マザー・テレサ」のDVDをレンタル・ビデオ屋さんから借りて観ました。インドで裕福な家庭の女学生たちを教えるカトリック学校の校長先生をしていたマザーテレサ、生徒たちを愛し、子供たちを教えることが好きでした。生徒達もマザーテレサを尊敬し親しい間柄でありました。毎日、彼女は教鞭をとりながらも、窓から見えるインドの貧しい人たちのことが気になりました。神の使命を果たしていくそんな時、神によって、その使命の奥にある使命を明確に示されるのでした。それは、スラム街へ行き、極貧の人と共に歩み、主の愛をもって仕える事でした。彼女は祈り深く、はっきりとしたこの神の語りかけによる信仰の確信を明確に掲げて行きます。厳格なカトリック教会の組織や規則の中でありましたが、神によって門が開け神の御心が進んで行くのでした。彼女は取材をする者には、「自分は、神の道具としてのペンに過ぎない」と語りまっています。ヒンズー教の方が死ぬ間際、「なぜ、あなたは私にそんなに親切にしてくれるのですか」との問いかけに、「彼女はあなたの向うにイエス様を見ているからです」と答えていました。

 「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)」

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