静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2011年08月28日 | 天のマナ

「悔い改めるということ」 「だから、悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)

 

 先週、浜名湖畔で東海ブロック牧師研修会が「人権を考える、震災を考える」というテーマで持

たれました。25名の牧師とその子供達が集いました。人権を考えるでは一つの事件を検証しディ

スカッションがなされました。その学びで「悔い改め」について認識を新たにいたしました。それは、

「悔い改めと赦しが安易にされてないか」ということでした。「悔い改め」とは、ただ表面的な言葉と

してのものではなく、「深い認罪と心からの真の悔い改め・謝罪」そして「悔い改めの実を結ぶこと」

であるということです。「悔い改めの実」とは、「罪から離れ、相手に償いをし、相手との和解をし、

関係が回復すること」を含んでいます。「言葉による悔い改め、謝罪」と「悔い改めの実」を切り離す

ことなく、一つのこととしてあらわす必要があるのです。まとめますと「悔い改め」とは、深い認罪、

真の謝罪、罪から離れ、相手への償い、相手との和解、関係の回復ということなのです。

 

2011・8・28

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主日礼拝説教要約

2011年08月28日 | 説教要約

「主なる神をほめたたえよ」 詩篇47篇1~9節

 この詩篇は、勝利の歌であります。主役は王ではなく、主なる神であり、主なる神がほめたたえられています。神の臨在の象徴でもあります神の契約の箱を運び上げさせながら賛美したとも言われています。

Ⅰ 主をほめたたえる

 「もろもろの民よ」と呼びかけられており、全ての民に主なる神をほめたたえることが勧められています。それも、手をうち喜びの声をあげてという体全体で表現するほどです。なぜ、そんなにすることが言われているのでしょうか。

Ⅱ 主をほめたたえる理由

 それは、この主なる神は、いと高き主であり(2)、聖なる方(8)、全知の支配者(2)であるからであります。この主なる神が、神を信じる神の民に対して、神の祝福(4)を与えられているからであります。

 賛美の中に臨在される主なる神を、主をほめたたえることによって、体験させていただきましょう。

2011/8/28 説教者 杉本守

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講壇の花

2011年08月28日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年08月21日 | 説教要約

「救い主としてのしるし」 マタイによる福音書16章1~4節

 主イエスがガリラヤに戻って来ると、いつもは対立しているパリサイ人とサドカイ人が、主イエスを試みたのです。それは、「救い主としてのしるしを見せろ」というものでした。救い主としてしるしを見せてくれたら信じるという姿勢ではなく、とっくに腹のうちではイエスを殺害しようと決めていて、そのきっかけがほしかっただけのものでした。

Ⅰ 神の国の到来のしるし

 主イエスは、彼らのしるしを求める要求に、人は空模様で明日の天気を知る天候のしるしを見分けられるのに、どうして時のしるしを見分けられないのかと迫りました。具体的には神の国が語られ、癒しがなされ、悪霊が追い出され、奇跡がなされ、魂が救いを受け神のもとに立ち返っていることを見れば当然、救い主によって神の国が到来していることを認められるはずであるというのです。

Ⅱ 救い主としての最大のしるし

 罪で心の目がふさがれている邪悪で不義な時代にある者達には、救い主としての最大のしるし(ヨナのしるし:十字架と復活)を見せることしか、救い主に気付かないことを主イエスは語られました。これは皮肉というより、最大な主イエスの彼らに対する憐れみであることを知るのです。

 私たちは、素直な心を持って主イエスを救い主と受け入れ、主の福音の恵みにあずかっていきましょう。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(テモテ第二の手紙2章8節)

2011/8/21 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年08月21日 | 天のマナ

「サマーバイブルキャンプの恵み」 「あなたがたが実を結び」(ヨハネ15:8)

 

 お祈りを感謝いたします。8月15日(月)~17日(水)国立中央青少年交流の家(御殿場)

で、52名の教区のキャンプがもたれました。静岡教会からもキャンパーとして三人が参加し

ました。初体験のゲートボール、スライダー付のプールで遊んだり、写真立てをデコレーショ

ンしたり楽しい時でした。何よりも幸いだったのが、三回の恵みの集会で、三人がそれぞれに

信仰の決心をしたことでした。幼い魂かもしれませんが、御子主イエスの血汐が流された尊い

魂、純粋な信仰をもって、主イエスを信じる決心をし、洗礼を受ける決心を、それをキャンプ

ファイヤーでみんなの前で言い表しました。主の御名をほめたたえます。大島ユースキャンプ

に参加した子供達を含め、祈り決心されたことが、実を結んでいけるように私たちは祈り、励

ましていきたいのです。

 

2011・8・21

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講壇の花

2011年08月21日 | 生花
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天のマナ

2011年08月14日 | 天のマナ

「圧倒的な神の恵みによる救い」  「永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

 

 先週は、猛暑を通り越して酷暑といってよいほどの真夏日でした。仕事をしていた人は、夏季休暇であったでしょうか。

 ある宗教では、亡くなった先祖の供養するためにこの猛暑の中、一族集まるようです。生前は忙しくて修行をできない人は、亡くなってから修行をするようなことを聞きます。それを子孫達は、応援する意味で供養するのです。亡くなってからも本人も子孫も大変だなという印象を受けます。

 しかし、私たちクリスチャンはそうではありません。主イエスを信じ罪赦された者は、すでに義とせられ神の子とせられ、永遠の命をいただいており、もし、この世での生涯を終わったのなら、神の懐(パラダイス、神の国の庭)に平安に満たされ憩いますし、この世界が終わる時には、永遠の輝く神の国へ入るのです。だから、死んだあとに、修行をしたり、何か足りないように供養され応援を受ける必要はありません神の国に入る準備はすべてイエスが十字架でしてくださったからです。神の救いと恵みは圧倒的に豊かであります。この喜びを分かち合う為に一族が集るならそれほど素晴らしいことはありません。

 

2011・8・14

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主日礼拝説教要約

2011年08月14日 | 説教要約

「神がその中におられる」 詩篇46篇1~12節

 詩篇の中でも有名な詩の一つであります。この詩人は、神と詩人を含めた共同体との関係で、経験してきた救いのみわざに基づいて、神がどういう方なのかを告白しています。その内容をみていきましょう。

Ⅰ 恐れない理由

 揺れ動く大地、変わっていく国、政治、経済。この世のもろもろのものは揺れ動き変わっていきます。しかし、その中で詩人は、「恐れない」と宣言をしています。なぜでしょうか。それは、すべてを満たすことのできる神の臨在という川が、神を信じる共同体である神の都に流れているからであります。またこの方は、守ってくださる避けどころ、砦となってくださっているのです。この方がいらっしゃるので、神を信じる者はどんなに揺れ動く世にあっても決して動かされないからです。

Ⅱ 平安を与える神

 「動かされない」という消極的な面だけではなく、神は神を信じる共同体に平和・平安を与えると積極的に言われています。この方は、争いを終わらせ、国々に平和を、個人には平安を与えてくださる御業をされるのです。

 ですから、私たちは世が揺れる時こそ、静まって真の神を知り、その御業を体験し神をあがめる者とさらにされたいのであります。

2011/8/14 説教者 杉本守

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講壇の花

2011年08月14日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年08月07日 | 説教要約

「わたしをあわれんでください」 マタイ15章21~28節

 主イエスは、地中海に接したツロとシドンの地方へ行かれました。そこで、カナンの女性が主イエスに懇願してきました。この箇所より主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 願い続けた内容

 この異邦の女性は、「イエスを主、ダビデの子」と呼びました。異邦人でありながら、イエスを救い主として信じ認めていたのです。彼女の願いは、「わたしをあわれんでください」とのものでした。「娘から悪霊を追い出してください」と願う前に、そう言ったのです。それは、娘がどうこうの前に、自分が問題なのだ、娘が救われるためには自分があわれまれ、自分に信仰の確信が与えられることが必要だと思ったからに違いありません。「主よ、わたしをお助け下さい」とも続けて告白しています。

Ⅱ 願い続けた信仰

 主イエスは、三度ほどこの女性の願いを取り下げます。一見冷たいように感じますが、それは表面的な見方であります。主イエスには深い御旨がありました。父なる神の救いの計画は、まず神の選びの民ユダヤ人にあらわされること、今は異邦人への時ではないと主イエスは語りながらも、この女性の信仰を引き出し高めようとしています。この女性は、へりくだり、主イエスのお言葉をそのまま受け入れます。そしてさらに、この女性は、神の救いの計画はそうでありますが、神の恵みというのはものすごく豊かでありまして、神の救いの計画というテーブルからあふれ出て、異邦のわたしにもこぼれてくるのではないでしょうか、と訴えるのです。主イエスは、この女性の信仰をほめ、彼女の願いを聞きいれ、彼女をあわれみ彼女の娘から悪霊を追い出し癒されたのでした。

 私たちの信仰はいかがでしょうか。形式的な信仰ではなく、この女性のようにいのち溢れる信仰を持たせていただきましょう。「わたしをあわれんでください」と。神の恵みは溢れていますと。

2011・8・7 説教者 杉本守

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