静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2015年05月31日 | 天のマナ
「ただ、まっすぐに成長する」

「人格は木のようなものであり、評判は木の影のようなものである。刻々と移り変わっていく影など気にせずに、ただ、まっすぐに成長していればいいのだ」。この言葉もアブラハム・リンカーンの言葉です。人は、人の評判を気にします。横を見て生きるからです。もちろん、人の評判なんてどうでもよいということではありませんが、人の評判にとらわれ過ぎますとそれに振り回されてしまうか、何もできなくなってしまいます。クリスチャンは上(神)を見て生きる者となったのですから、「ただまっすぐ生きているか」を気にする必要があります。

「まっすぐ生きる」とは、「神の御心に沿って、神の言葉なる聖書に沿って生きる」ということであります。このように生きるならば、パウロのような愛なる神の良き証し人となります。
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(コリント人への第二の手紙6章8節)

2015/5/31
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2015年05月31日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2015年05月24日 | 説教要約
「教会のかしらであるキリスト」エペソ1章15~23節

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(23)

 本日は、ペンテコステの礼拝です。聖霊なる神が降り、教会がスタートした日です。

Ⅰ 教会とは
 教会とは、「神によって召しだされた者の集まり(共同体)」であるということができます。また、教会は、「見えない教会」であり「見える教会」であるというふうにもいわれます。「見えない教会」とは、使徒信条でも告白している「普遍的な公同の教会」です。「普遍的」とは、地理的・歴史的制約をこえた広がりをもつことを示しています。時代や国をこえ、教団教派をこえ、制度や組織をこえ永遠の共同体であります。イエスを救い主と信じて救われた者たちすべてが属しているものであります。「見える教会」とは、地上の地域教会であり、制度や組織があるものであります。私たちは日本ホーリネス教団静岡教会に導かれ属しています。

Ⅱ 教会の主
 この教会の主は誰でしょうか。父なる神は、御子キリストに、この世においても来るべき世においても、永遠にすべての支配、権威、権力、権勢を与えられました。このすべてのもの主権者なるキリストが教会のかしらであります。ですから、この世のどんな勢力をも恐れる必要はありません。迫害の歴史の中にあっても、教会は活力を失わずかえって力を増し拡大しています。まさしく教会は、あらゆるものをすべてによって満たすことができるキリストが聖霊によって満ち満ちている共同体なのであります。

 ですから、聖霊に満たされて教会を建てあげていきましょう。

 2015.5.24 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2015年05月24日 | 天のマナ
「分かち合う喜び」
 「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6:30)
 「神は、人間を尊い存在として造り生かし満たして下さっているというが、世界の中では食料が足りず栄養不足で生きていけない人たちがいるのはどうしたことか」と高校生の頃考えたものでした。以前までは、「神様、食物は足りないのではないでしょうか」と考えていましたが、そうではないとわかりました。「足りないのは食物ではなく、人間の愛であった」とわかったのです。神様は60億を超える人間を養う食物を育てさせ収穫させ、またそれらを貯蔵・保存・輸送する知恵を与えています。しかし、人間の自己中心、欲は人間の愛に勝り、分け合うこと分かち合うことを留めさせ、食料を無駄にし贅沢までして大量に廃棄しているのです。世界に食べられない人がいる原因は、神にではなく人間にあり、人間の自己中心、欲です。
 主の愛により、自分たちにできることをさせていただき、霊肉共に分かち合う喜びを体験して行きましょう。

2015/5/24
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2015年05月24日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2015年05月17日 | 天のマナ
 「斧を研ぐ」  「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)
 
 アブラハム・リンカーンの名言に、「もし、木を切り倒すのに8時間与えられたなら、私は6時間を斧を研ぐのに費やすだろう」というものがあります。大木を切り倒すのは簡単ではありません。そのことをよく理解している彼の行動です。
 一方、私は、木を切り倒すように8時間与えられたら、斧の刃の状態なんか気にせずに、早速斧をもって木に向かうに違いありません。8時間もいらない、3時間で一気にと・・・その結果、1時間後、なんとか力ずくで三分の一まですることができるでしょうが、力は尽き果て、思うようにいかず投げ出したくなるに違いありません。細い木なら勢いだけで切り倒すことができるでしょうが、大木を切り倒すには準備(段取り)が必要となります。彼は、最初の6時間斧を研ぐというのです。6時間もです。そんなに待てません。しかし、それが後になって効力を発揮するのです。すぐに器以上の自分をしぼり出そうとし一杯一杯になる私には、良い教訓です。
 土曜日は、主日(日曜日)の備えの日です。礼拝において説教の務めを受けている私にとって早天祈祷会は、霊的な斧を研ぐ時間となっています。

2015・5・17
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2015年05月17日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2015年05月10日 | 説教要約
「神のあふれる祝福を受ける」 エペソ1章1~14節

「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」(13)

 エペソの教会は、パウロが第二伝道旅行の際に、二年以上も滞在し、救われるものが起こされ教会がたてあげられました。後に(AD61)、パウロが獄中からエペソにいるクリスチャンに記した手紙であります。1~3章は「救いとは何か、教会とは何か」という教理的な部分で、4~6章は「いかにキリスト者として生き、働き、神の栄光をあらわすか」との実際的な部分が記されています。

Ⅰ 神の奥義なるご計画の内容
 ①いつ? 神の計画では、天地が造られる前から私たちを選んでくださっていて、神は時の満ちるに及んで実現されているのです。
 ②だれに?神の計画は、わたしたちを、わたしたちにです
 ③なに? 神の計画は、神の祝福であり、神の選びであり、神の子たる身分を授けることであり、罪過の赦しであります。

Ⅱ 神の奥義なるご計画の遂行
 ①どのように?誰によって?
  神は神の計画をキリストによってなされています。「神はキリストにあって」と何度も記しています。
 ②何のために?
  神の計画は、天地のすべてをことごとく、キリストにあって一つに帰せしめ(集められ)キリストの愛のもとに置くためであります。

 これらのことは何によって保証されるのでしょうか。それは聖霊なる神の証印であります。イエス・キリストを信じた者は、神のものとなり、神の国を引き継ぐのです。なんという神の奥義なる祝福の計画でしょうか。その中に与り続けましょう。

2015/5/10 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2015年05月10日 | 天のマナ
 「神の愛に捉えられたら」    
 
 6日(水)に会堂返済完済感謝礼拝と感謝会が持たれました。多くの先生や兄弟姉妹が集って下さり、主の恵み溢れる時を持つ事が出来ました。玄関で皆様をお迎えしておりますと、先生方が「本日はおめでとうございます」とお祝いの声をかけて下さいました。「遠方より休日なのに来て下さりありがとうございます」と返事をする中、だんだんとうれしさが湧いてきました。その実感と共に先生方の背後に、イエス様がいてくださって次のような言葉をかけてくれたように思えました。「おめでとう。よくやりました。よく最後までわたしの言葉を信じ従ってきましたね」と。私は応えました。「いえいえ、もったいないお言葉です。時には愚痴ったり、へこんだり、不安になったりといろいろな私でしたのに。それでもそんな愛のお言葉をかけて下さるのですね。こんな愛を受けたら、これかも従い続けるしかありませんよ」と。主イエスは、兄弟姉妹にも同じ言葉をかけて下さったに違いありません。「おめでとう。よくやりましたね。よく最後までわたしの言葉を信じ従ってきましたね」と。あなたはイエス様にどう応えますか?  また神の国の門でイエス様は、どんな言葉をもって迎えて下さるのでしょう。楽しみです。

2015・5・10
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2015年05月03日 | 説教要約
「神のみ言葉はわたしの道の光です」詩篇119篇105~112節

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(105)

 ヘブル語の「ヌン」で始まるそれぞれの節です。

Ⅰ 神のみ言葉
 神のみ言葉とは、創世記を見ますとそれは創造の言葉です。神の言葉が一言発せられるとそれは、創造がなされ出来事を起こすのです。神の言葉には力があり命があります。

Ⅱ わたしの道の光
 「足」は、ステップであり日々の歩みであります。「道」は生涯であります。詩人は、ひどく悩んでいました(107)。それは、常にいのちの危機にさらされている(109)ようであり、悪しき者たちがわなをもうけている(110)ものでした。どのようにどちらを歩んでよいかわからないような時に、神のみ言葉が足元を照らし、行き先を導くのでありました。神の言葉が彼の歩みに介入してきたのです。彼は、この神の言葉と共に歩むことを決めます。誓い行う、忘れない、心の喜びとしたのです。

 日々の生活の中でどんな時も、御言葉というランプを掲げて、人生という旅路を進んでまいりましょう。その光は、確実に神の御心とみ国へと導くからです。

2015/5/3 説教者 杉本守
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする