静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

秋のコンサート カントリーゴスペルをティータイムと共に

2016年10月30日 | 教会案内


どうぞ、お出かけください。
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天のマナ

2016年10月30日 | 天のマナ
「イエスの命の犠牲よる罪の赦し」 (ヨハネ第一の手紙4章10節)

「なぜ、神のひとり子である子なる神イエス・キリストは、わざわざ人となり、この世に来られたのでしょうか?」 それは、罪ある人間では、どんなに努力しても、罪からの自己救済ができないからです。だから、罪のない救い主イエス・キリストがこの世に来られ、罪から人を救う必要があったのです。人を愛された神の愛の行為です。「なぜ、神のひとり子である子なる神イエス・キリストは、十字架にまでかかられたのでしょうか?」神の前に人間では罪の代価を支払えないからです。犯してきた多くの罪の償いが出来なければ赦されません。神の裁きを受けるならば、人間は永遠の滅びに行くしかあるません。

 水谷潔先生の本に次のような文章があります。  
 そもそも罪について「謝れば赦してもらえるのは当然」とする、その前提が異常です。古代キリスト教最大の神学者とされるアウグスティヌスは、「罪とは赦してはならないもののことである」と罪を定義しています。罪とは「本来、絶対赦してもらえない」という前提を持つものです。神さまは(義であり)不正ができません。無代価(償いが無い)では赦すことができません。そこで、赦しの代価として神のひとり子のいのちが犠牲にされたのです。神がご自身のひとり子を十字架につけてまでして達成された罪の赦しを、「赦されて当然」と前提にするとは、完全に十字架をなめています。( )は杉本が加えています。
 赦しは当然ではなく、主イエスの命が払われた碁聖による恵みです。
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天のマナ

2016年10月23日 | 天のマナ
「自分の理想か神の御心か」              
 
 私たちクリスチャンは、律法主義者にならないように気を付ける必要があります。律法学者は、旧約の律法を良く知っておりました。それに生きようとしておりましたが、生きることができずに、知識だけのものとなったり、形式的ものになったりしてしまいました。そして、自分はできていると勘違いし、また人々にも律法の重荷を負わせるだけでした。私たちは聖書を読み聴く中で、神の御心に従いたいと願います。そしてそれは、ひと足ひと足、主なる神によって私たちの内になされていくわけですが、ついついプロセス(過程)を無視し、それもいつの間にか表面的な自分の理想にすり替え、それに固執してしまい、できていない人を裁き、ついにはできていない自分を裁きます。自分の理想の結婚、自分の理想の家庭、自分の理想の教会、自分の理想の牧師、自分の理想の信徒と・・・。自分の理想に固執し過ぎて、神の御心よりも自分の理想を優先してしまってはいけません。神の御心が示された時、自己中心の自我では従えませんが、きよめられた自我なら従えます。自分の理想を成そうとしているのか、神の御心を成そうとしているのか、神の御業が成されることを阻んでいないかを各自が問うことが大切です。
「むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれることであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2)
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天のマナ

2016年10月16日 | 天のマナ
「東海ブロック青年研修会(あしか)の恵み」

 今回のあしかは、「結婚と結婚生活」というテーマで、水谷潔牧師が講義をしてくださり、その後、年代に別れて、また男女に別れて話し合いが持たれた幸いな時でした。心に残っている二つのことを記させていただきます。①結婚の前に自立をすること。「自立」とは、社会的、経済的な自立だけではなく、信仰的な自立(神と自分との直接な関係を築く)、そして精神的な自立が必要であるとのことでした。「精神的な自立」とは、「自分で考え、自分で決断し、自分で行動して、自分で責任を取る」ことです。親の言いなりになったり、親に尻拭をさせたり、責任を取らせることがないようにということでした。②クリスチャンの夫は二つの方に献身せよとのこと。まずは神様に献身することであります。そして、妻に献身をすることです。原点に立ち返りすっきりしました。イエス様が教会を愛して教会のために命を捨てて献身したように、夫が妻に対して献身し、妻が夫の献身を感じたなら、妻は夫に喜んで従うのです。妻が夫に従わないのは、夫の献身が不十分なのです。
「それで人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」(創世記2章24節)
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天のマナ

2016年10月09日 | 天のマナ
「恵みの分かち合いの幸い」              

 年代別セル、賜物セル、成人科、祈祷会において主からいただいた恵みの分かち合い、重荷の分かち合いがなされています。私は、そこに身を置く時に、楽しみがいくつかありますが、そのうちの一つは、いくつかのみ言葉が開かれることです。それらは、デボーションでいただいたみ言葉であったり、困難の中の歩みの中でいただいたみ言葉だったり、メッセージの応答の中で開かれるみ言葉だったり、それぞれです。もちろん、その兄姉に語られた主のみ言葉ですが、この分かち合いを通して、主が私に語られているみ言葉であると期待して耳を傾け聞き、信じ受け止めるから楽しみなのです。それらのみ言葉は、時に集う者を砕き、慰め、赦し、きよめ、平安を与え、包み励まし、立ち上がらせ、力づけ、磨くのです。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をひめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
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天のマナ

2016年10月02日 | 天のマナ
 「神に取り扱われる経験」

 私たちのクリスチャンの歩みのスタートは、救い(義認、新生)であります。一人一人が神と出会い、神に取り扱われました。それは、イエス・キリストを救い主として信じ、自分の罪を認め悔い改め、神の赦しを受け義とせられ、神の子とせられ、永遠の命をいただいたということです。この救いの経験はスタート(生まれたこと)に過ぎません。神との関係が回復し霊的に新生しました。これだけではまだ赤ん坊のままです。本人も周りも成長を願います。成長するためには日々、み言葉に親しみ祈り、毎週の礼拝をささげ、奉仕をなし伝道をなすことによって成長します。それと共に、特別な時が必要です。それは、神に取り扱われ、み言葉を信仰によって体験することです。救いは、義認だけではなく、聖化(きよめ)の経験、きよめられ続ける経験が必要です。また、困難や苦難の中やチャレンジの中で神に取り扱われ、み言葉を信仰によって体験することが必要です。モーセもダビデもイザヤもペテロもパウロも、神に取り扱われました。み言葉の光に照らされ、悔い改め、み言葉に立つという神に取り扱われる経験は、信仰者の財産です。
「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛するか」。(ヨハネ21:17)
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