静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

講壇の花(イースター)

2024年03月31日 | 生花



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天のマナ

2024年03月31日 | 天のマナ
 「信念と信仰」

「信念と信仰の違いは?」と問われたらなんと答えるでしょうか。「信念」を一般の辞書で調べると、「正しいと信じる自分の考え」「『これが正しい』と固く信じて疑わない心」「『これを必ず最後までやり通して見せる』といったような強い決意」とあります。「信仰」は、「神仏などを信じてあがめること」「ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること」とあります。聖書辞典では「信仰」を調べると、「神に対する信頼、そしてそこから当然起こる神のことばに対する信頼を言う」、また「新約聖書の中において『信じる』という動詞はほとんどの場合『の中に』(ギリシャ語エイス)、または『の上に』」ギリシャ語エピ)という前置詞を伴って用いられている。これは人となってくださった神の御子イエス・キリストの人格とみわざの上に、あるいはその中にすべてをゆだねることこそが信仰であることを示している」とあります。「信念」は自分を土台にした意志であり、「信仰」は神を土台とした意志であることとなります。私たち人間は揺れますが、どんなに時代が過ぎ状況が変わっても、揺るがない神を土台にしている私たちの信仰はなんと幸いでしょうか。
「主はわが岩、わが城、私を救う方」(詩編18:2)。
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天のマナ

2024年03月24日 | 天のマナ
「十字架で注がれた命による永遠の神の家族への招き」

 「家族の大切さ」をテーマにした一つの映画を観て考えておりました。私達、イエス・キリストを救い主と信じ救われたクリスチャンは、二つの家族に属しています。一つは「地上での肉親の家族」であり、もう一つは「永遠の神の御国での永遠の神の家族」です。「地上での肉親の家族」については説明はいらないでしょう。これも主なる神がひとりひとりに与えて下さった大切な繋がりであります。しかし、いつまでも一緒にいたいと願いますが、人は死にそして地上での別れの時が来ます。肉親の家族は地上のものであり、永遠のものではありません。主なる神はこれとは別に永遠の神の家族を用意されました。永遠の神の家族に加わり、そして永遠の神の御国に入るように、子なる神イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを招き門を開いて下さったのです。それが十字架の御業です。主イエスを自分の救い主と信じて永遠の神の家族に加わりませんか?今も神はあなたを招いています。
 「御子を信じる人は永遠の命を得る」(ヨハネによる福音書3章36節)。
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天のマナ

2024年03月17日 | 天のマナ
「主イエスの内にあって互いに愛し合い仕え合う」

 エフェソ6章、コロサイ3章、Ⅰテモテ6章、テトス2章、フィレモン書などのみ言葉に聴いてきて、「聖書は当時の主人と奴隷の関係、そして奴隷制度そのものにどういう考えなのか?」という思いを持った人は私を含め少なくないのではないしょうか。聖書は「主人と奴隷の関係」を抑圧的な関係ではなく、兄弟愛の関係でありなさいと言っています。つまり「主人は奴隷を平等に扱い脅かすことをやめなさい。奴隷は主人に忠実に仕えなさい」ということです。では「奴隷制度そのものについて」はどうでしょうか。主イエス、そして主イエスの御心を記したパウロは、「直ちに廃止にしなさい」とは言っていません。なぜなら、当時は現代のような働き場もなく、社会支援もなく、生きていくので精一杯の時代であり、安易に廃止したら飢え死にしてしまう者達も多かったのです。主イエスの使命は、社会制度を変え整えるために来たのではなく、もっと根本的なこと、全ての問題の根源である罪を解決することでありました。どれほど社会制度を変えようとも、それは対処療法に過ぎず、問題は人の心の罪であり、内側を解決する根治(原因)療法が成されなければなりませんでした。主イエスは、救い主にしかできない根本問題を解決し、社会制度の変えることは後世の者達に任せられたのです。
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天のマナ

2024年03月10日 | 天のマナ
「人生における苦難の役割」

 伊東教会の祈祷会は月の3~4回、伊東教会堂と伊豆大島の泉の家と静岡教会堂の三か所をネットでつなぎ、オンライン(映像と音声)でしています。今はヨブ記のみ言葉に耳を傾けて23章まできました。ヨブの忍耐、そしてヨブ記を読む者達の忍耐、何よりも主なる神の忍耐と主権とをおぼえます。

「神はなぜ人間が受ける苦難を許容しているのか」という問いを誰しも持ったことがあるのでしょうか。もし、苦難がなければ幸いな人生なのにと思います。もちろん苦難は苦しく辛く喜ばしい事ではありませんが、地上の歩みをしている私たちには必要なことなのでしょう。もし、苦難がなければ、人は高ぶり、人の弱さ小ささを知ることがないからです。苦難は、第一に「人がどういう者かという」ありのままを教えてくれます。人はまさに「小さくて弱い存在」です。そして第二に苦難は、人を神に向けさせます。それも真摯(まじめに熱心な事、ひたむき)に向き合うことをさせるのです。そして「神こそが主権者である」ことを人は知るのです。
「苦しみ遭ったことは私に良い事でした。あなたの掟を学ぶためでした」(詩編119:71)
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講壇の生花2

2024年03月10日 | 生花
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講壇の生花

2024年03月10日 | 生花
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天のマナ

2024年03月03日 | 天のマナ
 「キラキラ輝いているクリスチャン(栄光から栄光へと主と同じ姿に)」

 ある牧師が、クリスチャンに三種類いると言われました。一番目はキラキラ輝いているクリスチャン、二番目はどんよりしているクリスチャン、三番目は眠っているクリスチャンだそうです。私はどれだろうかと自問しています。以前、教団主催のある小さな集会(20人弱)でひとりのキラキラ輝いている一人のクリスチャンと会いました。その集会では、前もって自己紹介文章を出すことになっていました。スタッフである私たち夫妻は、一人一人の文章を読んでいた時、様々な自己紹介文章がありましたが、私はこの方の自己紹介の一文に目が留まり嬉しくなりました。それは、「私はイエス様が大好きです」というものでした。この方はどんな方だろうと思い会ってみると、まさしくキラキラ輝いている方でした。

 「イエス様はあなたが大好きです。あなたを愛しています」。「あなたはイエス様が大好きですか?イエス様を愛していますか?」。「何かできる、何かできた」よりも、「イエス様が大好き、イエス様のために精一杯」が、キラキラ輝いているクリスチャンの姿です。

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