静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2009年05月31日 | 説教要約
「神の裁きからの救い」創世記6章9~22節

 本日はペンテコステ伝道礼拝です。ノアの箱舟の記事から、主のメッセージをいただきましょう。

Ⅰ 神から離れたこの世界
 ノアの住んでいた時代、人々は神から離れ、自己中心に歩んだ結果、地には悪がはびこり、混乱し暴虐が満ちていました。神は人を造ったことを悔い、神の義によって、世界を洪水によって滅ぼすことを決められたのでした。
 ノアの時代だけではありません。現代もまさしく同じく混乱しています。

Ⅱ 神の裁きと救い
 神はその裁きの中にも、憐れみをかけ、神を敬い従うノアとノアの家族とを救いなさるのです。箱舟を造るのに何ヶ月、何年の月日を費やしたでしょうか。街の人々はあざけったでしょう。しかし、ノアは神の言葉に従い箱舟を完成させるのです。その後、神は大洪水を起こし、世界を滅ぼしてしまいましたが、ノアとノアの家族を救われたのでした。
 
 この混乱した現代も義なる神は裁きをなされます。しかし、神を信じる者達に、現代版の箱舟を造るように言われているのです。それは、「教会」であります。私達先に救われたクリスチャンは、宣教をし教会を形成していく使命があるのです。ノアの真実さと忍耐さをもって、教会形成を継続していきましょう。

2009.5.31 説教者 杉本守

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天のマナ

2009年05月31日 | 天のマナ
 「デボーションしよう!」 

「あなたのみ言葉を喜びます」(詩篇119篇162節)

 先日の祈祷会での分かち合いの中で、ある兄弟が「聖書を一日一章読むことを年初から始めていましたが、時々途切れてしまう」と正直に語られていました。 

「デボーション(主なる神との交わり)」を毎日毎日、良き習慣として身につけ、主なる神と生きた交わりをする大切さを、よく私達はわかっていますが、実行していくことはなかなかできず、自分にがっかりしてしまいます。しかし、がっかりして止めてしまってはいけません。途切れてしまったと気がついた時からまたスタートしていけば良いのです。その繰り返しになっても、恐れるには及びません。聖書を読むことに戻れば、主との交わりの喜びと自らを満たす恵みを体験し、徐々に途切れる間隔も狭まって行くに違いありません。

 さらには、共に励ましあうことです。デボーションブログも9ヶ月なんとか継続し、コメントにデボーションの恵みの分かち合いを投稿してくれる方によって、支えられてきました。以前にも記載しましたがアドレスです。

http://blog.goo.ne.jp/holybible_wakuwaku/ 

共に励ましあい、続けて主の恵みにあずかろうではありませんか。

2009/5/31
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講壇の花

2009年05月31日 | 生花
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天のマナ

2009年05月26日 | 天のマナ
 「ただただ神のあわれみにすがる」

 司法において裁判員制度がスタートしました。今までは裁判官が裁いていましたが、これからは一般人から裁判員が選ばれ、裁判官と共に協議し判決をくだします。

 私達人間はこの社会に生きています。幸いな豊かな社会にするためには秩序が必要であり、法やルールに沿って歩むことが大切であります。そして、法を犯した者への裁判も必要であります。

 けれども、その裁判の目的は、「裁きそのもの」で終わってはいけないのではないかと考えるのです。本来の裁判の目的は、「罪責を深く思わせ、償いをさせ、真の人間の姿に回復させること」ではないでしょうか。限界を持つ人間による裁判(司法)は、完全ではなく不十分であり、時には誤審もします。また、「法を作る(立法)人間も、作られる法」もパーフェクトではく、今後も人間は成熟する必要があるし、法は改正されていく必要があるのです。

 だから、その事を自覚した上で、それらが神の御心の中でなされるようにと祈るのです。神の前にへりくだり、神のあわれみの内になされるようにと願います。

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」
                    (マタイによる福音書6章10節)

2009/5/24
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主日礼拝説教要約

2009年05月24日 | 説教要約
「神の導きと備え」  使徒行伝28章1~15節

 イタリヤの南、マルタ島に流され着いたパウロ一行の島の出来事から、今日も共にみ言葉をいただきましょう。

Ⅰ 神の不思議な導き
 14日間の漂流の末、船は地中海を西へ1000キロ近く流されてマルタ島に着きました。それはアフリカではなく、また大西洋に出たのではなく、なんとイタリアの南の島でした。神の不思議な導きです。島の人達は嵐から逃れたパウロらを正義の女神に救われた者と見て、親切にしてくれたのでした。
 しかし、パウロが柴を火にくべた所、その柴から毒蛇がでてきて、パウロを噛んだのでした。それを見ていた島の人は、正義の女神がパウロを見捨てたと思います。けれども、いくら経ってもパウロが平気なのを見て、今度は神とあがめます。
島の人間は状況に左右され考えや思いをコロコロ変えてしまいました。

Ⅱ 神の不思議な備え
 冬の航海は危険なので、パウロらは三ヶ月この島に留まります。そして、神はパウロを通して、島の首長ポプリオの父や病にある島民を癒すのでした。さらに福音を語ります。多くの者は癒され救われ、三ヵ月後の出発の際には多くの必要の品々を用意してくれたのです。
 
 海上の難と難船が、マルタ島の伝道の機会となり、へびの件と癒しの件も、すべてが福音宣教へと広がったのでした。そしてローマへと通じていたのでした。
 
 私達クリスチャンは、状況に一喜一憂せず、神の不思議な導きの中にあること、神の万全な備えの中にあることを信じて進み行きましょう。

2009・5・24 説教者 杉本守
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講壇の花

2009年05月24日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年05月17日 | 説教要約
「神の真実による守り」 使徒行伝27章21~26節

 使徒パウロのローマ行きが決まり、パウロは百卒長のもとで船に乗り、ローマへ向かいました。しかし、その途中で暴風に遭い、二週間も難船してしまうのです。この記事より主の言葉をいただきましょう。

Ⅰ 神の言葉を聴く
 すでに航海は危険な季節に入り、パウロは途中の島で滞在を主張しましたが、百卒長ユリアスは船長や船主の意見を聞き船を出します。その結果、船は暴風に遭い、幾日もの間、太陽も星も見えず、積荷も船具も捨て、助かる望みもなく流され続けました。
 しかし、パウロはある夜、神の前に熱心に祈り、神の言葉を聴きます。それは、「恐れるな。あなたは必ずカイザル(ローマの皇帝)の前に立たなければならない」との言葉でした。

Ⅱ 神の言葉を信じ従う
 パウロは確かな神の言葉の約束をもう一度信じ確認し、元気付けられました。そしてこの絶望な状況の中にいる船長や船員をはじめ、船に乗っていた人たちを元気付け、食事をとらせたのでした。
 船は地中海を千キロ近く西へ流されましたが、パウロの信じたごとく、イタリアの下のマルタ島へ流され着き、助かったのでありました。

 神を信じているクリスチャンは、どんな状況の中でも、神の言葉を信じ、失望している人々を励ます務めをいただいているのです。主にあってそうあらせていただきましょう。

2009/5/17 説教者 杉本守


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天のマナ

2009年05月17日 | 天のマナ
 「この激動する時代だからこそ」
     
 テレビ、新聞、インターネットなどでの情報が溢れている今日であります。また、科学や医学の技術は進歩し、経済は上下し、社会のしくみも複雑になっていき、私達の歩みがそれに追いついていけない、逆にそれらに流され支配されそうな気さえしてしまうほどではないでしょうか。

 そうした激動していく世の中に私達は住み、日々の暮らしを歩んでいます。それらは、物質的な豊かさや体の健康に貢献してくれましたが、逆に課題(環境破壊、格差社会、ストレス、人間関係の薄弱など)も出てきていることはご存知であろうと思います。

 こうした時代であるからこそ、自らの存在と歩みが、時代変化や状況の波に流されず、支配されず、変わらないものを土台の上に建てられることが欠かせません。

 変わらないものとは何でしょうか。財、知識、職、健康は私達に生活には必要なものですが、変わっていきます。家族や友人も大切ですが、いつまでもではありません。変わらないもの、変わらない方とは、神の言葉である聖書であり、神ご自身です。

 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マルコ13章31節)。
 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。」 (ヘブル13章8節)。
 
 35年前、牧師であった私の祖父が、お風呂でこのヘブルのみ言葉の賛美をよく歌ってくれましたのを思い出します。

2009・5・17
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講壇の花

2009年05月17日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年05月10日 | 説教要約
「主イエスによる癒し」  マルコ10:46-52

Ⅰ主イエスと出会ったバルテマイ

 エリコはエルサレムへ向かう巡礼者たちが立ち寄る保養地であり、当時はエリコからエルサレムへ向かう人々を目当てに、多くの貧しい人々が物乞いをしていた。目の見えないバルテマイもそんな一人であったが、イエスさまが通られると知ると「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫びだした。彼は黙らせようとする人々に屈することなく、ますます激しく叫び続けた。それほどイエスさまのあわれみを求める叫びは必死で執拗なものであった。私たちも、主イエスに向かって彼のように真剣に必死に叫び求める者でありたい。

Ⅱ主イエスによる癒しを体験したバルテマイ

 バルテマイの叫びは主に届き、イエスさまは大声であわれみを求める彼を呼ぶように命じられた。バルテマイは喜びの余り上着を脱ぎ捨てて踊りあがって、まるで無邪気にはしゃぐ子供のように主のもとにやって来た。イエスさまは目の見えない彼の一番の願いはご存知だったが、あえて「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけられ、彼は「見えるようになることです」と答えた。自らの願いをハッキリと答えたバルテマイにイエスさまが救い(癒し)の宣言をされると、彼は見えるようになって、主にしたがって行った。私たちも「何をして欲しいのか?」と問いかけてくださるイエスさまにハッキリと願いを告げ、私達を愛し命さえ与えてくださったお方が一番良い事をして下さると心から信じ祈るものでありたい。

2009/5/10 説教者 杉本敬子
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