静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2013年11月24日 | 説教要約

「なんと幸いなことでしょう」 詩篇84篇1~12節

 人生の目的地、ゴールはどこでしょうか?

 この詩篇は、神が臨在されるエルサレム神殿での礼拝を目指し歩む巡礼者の思い、またはそのことへの思い持っている者の願いを記している詩であります。 私たちキリスト者にしてみますと、この地上での信仰の生涯、神の国を目指しながら歩んでいることと重ねることができます。「見るところ今は微かなれども、その日には顔を合わせて相見ん。」(新聖歌515の2節)の賛美が心に響きます。

 神が臨在される礼拝の場までの歩みは安易な道ではなく、涙の谷を通るのです。しかし、彼らはそこを喜びの泉の場として乗り越えていきます。なぜ彼らはそれができるのでしょうか。それは、神が臨在される礼拝の場を慕っているからであり、その心がいつもそこに向かっているからであります。さらにどんな所を通っても必ず神がそこを乗り越えさせ、神の臨在の場に導いてくださるとの信頼があるからです。

 私たちも、神の国を慕い、神の国をいつも目をとめ、主に信頼しつつ賛美をもって歩みましょう。なんと幸いでしょうか、人生のゴールである神の国に向かって歩んでいる者は。

2013/11/24 説教者 杉本守

「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人はさいわいです。」(5節)

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天のマナ

2013年11月24日 | 天のマナ

 「神につながる」

 ある部族の一人のアフリカ青年が、街に行きました。街には驚くものがたくさんありましたが、一番に驚いたのが水道でした。彼の部族は毎日、川や池に水を汲みに行っていたからでした。彼は壁にはめてある蛇口から水が出てくるのを不思議そうに眺め、これは便利だと思い、帰りがけにぴかぴか光る蛇口を買って帰りました。彼は家に着くと部族の者達を集め、「もう水を汲みに行かなくても良いぞ、これがあればいくらでも水が流れる」と言い、壁にその蛇口をはめ込み栓をひねりました。皆の目が蛇口に注がれましたが、時間が経つだけで水はいっこうに流れ出しませんでした。

 蛇口がいくらぴかぴか光って立派であっても、水道管、浄水場に繋がれていなくては、水は流れ出ません。私達はどうでしょうか?外側のことばかり気にして、内側である肝心な心、魂、霊のことをほっといてはいないでしょうか?内側が満たされ、内側から出る愛は、愛の源である霊なる神に繋がっていないと流れ出ないのではないでしょうか。私達人間に体だけではない、霊を造り授けてくださった神にしっかり繋がりましょう。日々の祈り、毎週の礼拝の中で。

2013・11・24

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講壇の花

2013年11月24日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年11月17日 | 説教要約

「人を活かす愛」 使徒行伝9章23~31節

 パウロが大宣教者となった背後に、神は多くの人を用いられました。殉教者ステパノ、祈りの人アナニヤ、執り成しの人バルナバであります。

 石で打たれて殉教するステパノのゆるしと執り成しの祈りが、石を打つ人々の上着を預かりステパノを見ていてパウロの心を打っていたのです。彼はその祈りをふさごうと打ち消そうと迫害にのめり込みましたが、打ち消せませんでした。また、ダマスコの途上で復活の主イエスに出会い、目が見えなくなり祈っていた彼の許へ、アナニヤが遣わされました。アナニヤは、迫害者である彼の許に行くことを最初は恐れましたが、神の言葉に従い勇気を持って彼に逢い、彼のために祈り、信仰を告白する彼に洗礼を授けました。洗礼を受けた彼は、肉眼の目と心の目が開かれ、大宣教という使命をいただき、ダマスコで福音を伝えました。その後、エルサレムにて教会に加わろうとしますが、弟子達は恐れ受け入れません。しかし、バルナバが彼を執り成し、彼は教会に加わることができたのでした。

 パウロが大宣教者としての働きをはじめることができたのは、これらの者達が神に従ったからであります。

 私たちも神に従い、若者たちを祈り、受け入れ、育てていきましょう。主が私たちにして下さったように。

2013・11・17 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年11月17日 | 天のマナ

 「神を愛し隣人を愛するとは」  「主なるあなたの神を愛せよ。」(ルカ10:27)

 先日、ある教会の一人の姉妹が急の病で天に召されました。家族が枕辺に残された祈りのメモを見つけました。そのメモは、グレース・チャペルの学び会で使っている本の著者でありますリック・ウォレン牧師の次のような祈りが書かれたものでした。「神さま、たとえ今日、何ができなかったとしても、神を愛し、また隣人を愛するときをしっかり持つことができるようにしてください。それが人生の全てなのですから」。(聖書のひかり参照)

 私たちにも、「今日はこれをした」と言えない日があるでしょう。病いの日もあるし、思ったことがはかどらなかったり、できなかったりする日もあります。しかし、ベットの上でも、家の中でも、「主よ感謝します」との祈りが、接する人(家族、友人、職場の方)への「ありがとう」のひと言が、神を愛し、また隣人を愛することになっているのです。たとい動けなくても、何かできなくても、神を愛し、隣人を愛することができるのです。

2013・11・17

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講壇の花

2013年11月17日 | 生花
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天のマナ

2013年11月10日 | 天のマナ

「隠されているものはあらわになる」

 半月前から社会では、飲食サービス業での問題がニュースで放映されています。「誤表示なのか、偽装なのか」「偽装なら、なぜそういう問題が起こるのか」というものです。あるコメンテーターは「客より利益優先主義である」と述べ、他の者は「経営者のおごり」「倫理、道徳の欠如」と答えます。

 「日本は罪の文化ではなく恥の文化である」と言われるのを耳にします。親も、「恥ずかしいことはしないように、恥をかかないように」と人の目を気にして、子供によく言い聞かせます。私の親もその言葉を私に言いましたが、それ以上に私に言ったのは、「神様の目を気にしなさい」との言葉でした。人が見ていても見ていなくても、あなたは神の前にあり、いつも神様は見ているのだから。「ばれなければよい」「見つからなければよい」「恥をかかなければよい」という世界ではなく、「神の前にも人の前にもいつも真実と誠実」である世界に、キリスト者としてこれからも共に歩んでいきましょう。

「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」(マタイによる福音書10章26節)

2013/11/10

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講壇の花

2013年11月10日 | 生花
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天のマナ

2013年11月03日 | 天のマナ

yahooの知恵袋に、二十代の女性がこんな質問を記載していました。

 簡単にまとめますと、「この方は、主人と二人暮らしで子供はいません。主人は優しく特に嫌な部分もありませんが、二年前に仕事の土木業の事故で首から下が不随になり、彼女は看病をしてきました。親には離婚を勧められましたが、一緒にいて優しく怪我にもめげずにいる主人には非があるわけでもなく、今のままで良いと心から思っていました。しかし、半年前くらいから、離婚を考えるようになりました。主人といても嫌になったわけでもなく、収入の面でもなんとかやっていけます。けれども自分の人生の方が大事になってきました。夫婦で旅行へいったり、外食をしたり、映画を観に行ったりしたいなど。わたしはおかしいでしょうか?」

 彼女の思いと感情、葛藤と叫びはどんなに大きいものでしょう。彼女も負いきれず、私たちも負いきれません。誰が悪いのでもなく誰も責められません。では、離婚したら解放されて楽になるのでしょうか。逆に良心の責め(夫を置き去りにしたのではないか)による罪責感を持つのではないでしょうか。ではどうしたらよいのでしょうか。私たちは、「結婚とは・・夫婦とは・・」と人間的なアドバイスをいろいろと言えるかもしませんが、彼女の知性には届いたとしても、心には届かないでしょう。では何もできないのでしょうか。いいえ、ただ一つの事しか言えませんが、これが本当の救いです。それは、救い主イエスにその荷を負ってもらうことです。なぜなら、生きておられる救い主イエスは、どんな重荷も困難も人間の弱さも罪もすべて負う事ができる方だからです。そして、主イエスは負うだけではなく、今の状況の中でも人間を癒し赦し活かし、溢れ輝くいのちの力を、毎日与えてくださるのです。主イエスと共に担っていけることは、何よりも増しての喜びと平安の日々となるのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)

2013/11/3 

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主日礼拝説教要約

2013年11月03日 | 説教要約

「神に選ばれたあなた」 使徒行伝9章1~22節

Ⅰ 神の心から離れているあなた

 ユダヤ名サウロは、神を信じていて、神の御心を行いたいと常に願い、神の御心を行っていると思っていましたが、彼のしていたキリスト者への迫害は、神の御心とは真反対のことでありました。神は救い主イエスをこの世に遣わし、すべての人の罪をイエスに負わせ、人類の身代わりとしてイエスを十字架に付けたのでした。この故に人の罪は赦されるのです。しかし、この神の福音を彼は理解し信じることができずに、神の御心と反対のことをしていたのです。人間はいかに知らず、また神の心から離れているかであります。

Ⅱ 神の心にかなうために選ばれたあなた

 こんな罪深いサウロに対して神は罰せずに、神の憐れみを発動し、復活の主イエスが彼にあらわれ、彼を救うのです。彼は自分の間違いと罪深さに気付き、彼の自身と誇りは砕かれ、悔い改めて救われ、生き方が180度変えられるのです。神は、彼を神の心にかなう者として選び造り変えたのです。彼は、イエスこそ救い主であると宣教していきました。

 神はどんなに神から離れている者でも選び救うことができ、神の器にし使命にいかしてくださるのです。

2013/11/3 説教者 杉本守

 

 

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