静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年04月26日 | 説教要約
「苦しみさえも益にかわる」詩編119編105~112節

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(71)

 119篇のテーマは、「神の言葉」です。神のみことばを愛し信頼することを言い表す内容となっています。そこでまず、詩人は、神のことばに従うことが私たちの人生において祝福であると語っています。この箇所は、ヘブル語の「テス」から始まる8節であります。

Ⅰ 迷っていた表面的な時代
 私たちはイエス・キリストを信じて救われる前までは、表面的な自分でありました。特に問題や苦しみもなく、そこそこやっていけると思っていました。しかし、心の奥底では、何かが欠けているという漠然とした不安、突き抜けない自分、表面の楽しみだけでは満たされない心の叫びがあり、人生はこのままでいいのかと迷っていました。この詩人もそうでした。

Ⅱ 見出した奥深い時代
 しかし、ある時、そのような表面的な時代から抜け出すことができたのです。それは苦しみがきっかけでした。この詩人にとっては、高ぶる者たちの偽りが詩人を覆った(69,70)ことでした。この苦しみが詩人を神に立ち返らせる機会となりました。迷いから解放され、確かな奥深い神のご計画を知り、神の恵みを体験していったのです。ですから、この詩人は、苦しみにあったことは、しあわせでしたということができたのです。私たちもそうであります。苦しみは嫌ですが、苦しみを通して神に近づき、神を信じ心が満たされ、人間本来の生き方を歩むことができているのです。

 苦しみは、神に向かわせるものであります。しかし苦しみだけに目を奪われることがないようにしましょう。その背後にある主と主のご計画に目を留め、さらに主の恵みを受け、さいわいな者とされましょう。

2015/4/26 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年04月26日 | 天のマナ
 「み国を継ぐ模範者として歩む」

「天国はほんとうにある」というDVD(映画)を借りてきて観ました。昨年の暮れにライフ・ラインで紹介されていた信仰的な映画の一つです。「本当に天国があると本気で信じているのか」との問いが、み言葉を信じ天国を語っている牧師を始め、み言葉を信じ聴き従っている信徒の方々の魂に訴えかけられ、それぞれが信仰的な葛藤をしながらも、最後には告白による明確な信仰の表明がなされていく映画です。

 この映画を観ながら、以前、ある方が語られた次のような言葉を思い出しました。「天国が本気であると信じているならば、この地上での生き方も、当然それにならい、いい加減な生き方になるはずがない」との言葉でした。私たちも、主の恵みに支えられて、主イエスに倣い、御国にふさわしい歩みをしていこうではありませんか。

「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」(Ⅰテモテ1:16)

2015/4/26
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天のマナ

2015年04月19日 | 天のマナ
 「神の国(神の愛の支配)と神の義(神の望むこと)を第一にする祝福」

 昨日のライフライン番組は、私たちと同じ教団の教会である千葉県袖ケ浦ホーリネス教会の信徒であられ、「大衆中華ホサナ」というラーメン店を経営されている岩崎潔兄の証しでした。彼は、ホテルや高級中華料理店で腕を磨いた経験の持ち主であり、看板メニューは、2011年に袖ケ浦市のご当地グルメコンテストで優勝した「ホワイトガウラーメン」です。1993年に開業して以来、不況で厳しい経営の中でも、岩崎さんが変わらず大切にしてきた思いがあるというのです。それは、神を第一にするという信仰でした。具体的には、日曜日にまず礼拝をささげるということでした。飲食店は何よりも日曜日が稼ぎ時であります。しかし、神の国と神の義を第一にするという信仰なくして、自分はないし、お店もないというこのことを証ししていました。こんなに神様に信頼する者を神様はほっておくはずがありません。神様の祝福の中で岩崎兄は、不況の中でも店をたたむことなく、必要は必ず満たされて、今も、おいしいラーメンを提供しています。信じ切る信仰をいただきましょう。

2015.4.19
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講壇の花

2015年04月19日 | 生花
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講壇の花

2015年04月19日 | 生花
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天のマナ

2015年04月12日 | 天のマナ
「祈り合う神の家族」   「絶えず祈りなさい。」(Ⅱテサロニケ5:17)

 教会では、祈祷会をはじめ、セル・グループ、早天祈祷会、ゴスペルなど共に祈る時が持たれています。牧師家庭の三人の娘たちも、社会人となり、祈祷会に参加し始めました。今まで祈られる側で、教会の兄姉の愛を受け育てられてきましたが、これからは、祈る側にもなる大切さと喜びを体験していくことでしょう。また、この祈りの時は、自らの霊の養いの時にもなります。
 
 礼拝だけ守れば自分の霊性が保てるでしょうか。弱い自分の内を問えば分ります。日々のデボーション(み言葉と祈り)による恵み、そして共に集まって祈る恵みをいただかなければ、霊的に満たされた一日一日は過ごせないのではないでしょうか。アダムとエバにみる人間の一つの罪は、神の言葉に従わず神なしに自分だけでできるという高慢でありました。祈りなくてもそこそこやっていけると思う高慢はないでしょうか。一人で祈り、共に祈り、教会(キリストに召しだされた者の集まり)を建て上げ、自らの霊性を養われて、信仰生活の日々を歩みましょう。


2015/4/12
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天のマナ

2015年04月05日 | 天のマナ
 「一時的なものか永遠か」

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。」(Ⅱコリント4:18)。

 聖書が言う「見えるもの」とは、何でしょうか。それは人間の外側(外面)、車、家、お金という物質的なものや地位や名誉という人間の肩書、そして人間の体もそうでありましょう。これらのものは、どんなに大きく立派でありましても時が過ぎれば壊れ、あるいは忘れ去られてしまいます。では、「見えないもの」とは何でしょうか。それは、神の世界、人間の内側(内面)、心、もっと言うならば魂、霊でありましょう。人間は、神によって造られた時、土から肉体を造られ、神の息(霊)を鼻から吹き入れられて生きるものとなりました。人間は使命を終えますと、その体は土に帰り、その霊はこれを授けた神に帰ります。そして神の前に立ち神の裁きを受けます。神の用意されたイエスキリストによる救いを受けた者は、永遠の体をいただき神の国へ入れられ、この救いを信じないで拒否し続けた者は、永遠の滅びへと落とされるのです。
 
 だから、この限りある地上の歩みの中で、一時的な見える者に目を奪われず、永遠なる創造者である霊なる神に目をとめ、自分の内側を吟味し、神の救いに与って歩もうではありませんか。

2015・4・5
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