静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2013年07月28日 | 教会案内

「神の言葉に立つ」 詩篇77編1~20節

 信仰者にとって一番の問題は、神の臨在と顧みが感じられない時ではないかと思います。この詩人もそのようの中にいました。

Ⅰ 悩みの日に

 詩人の悩みの大きさは、ものを言うこともできないほどのものでありました。具体的に何かということ以上に、呼び求める者に必ず応えてくださる神に呼び求めても、応えが得られずに、神の臨在と顧みが感じられないことが大いなる悩みでありました。まさしく信仰ある者の悩みであります。そのゆえに、神に見捨てられてしまったのか、神は恵みをほどこすのを忘れたのか、約束を忘れあわれみを閉ざされたのかと告白しています。

Ⅱ 数えよ主の恵み

 しかし、そのような中でも詩人は、神によって導かれていました。詩人は、今までの歩みより主のくすしきみわざを思い出していたのです。自分の歴史、神の民の歴史(出エジプト)の中で、神がどのような御業をなしてくださったのか。詩人は神の恵みに包まれ、「あなたの道は聖です」(13)にあるように、神のみわざは、人間の都合ではなく、神の聖なるご計画によって導かれる道を必ず用意してくださっているという信仰告白となっていったのです。

 神は、神に呼び求める者を決して捨てません。孤児としません。主イエスご自身が私たちを導かれているから、信頼して進みましょう。

2013/7/28 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年07月28日 | 天のマナ

 「再び燃え立たせなさい」 夏季聖会の恵み

 「私達の信仰の火は、今、どういう状態でしょうか?燃えに燃えているでしょうか?くすぶっているでしょうか?」と夏季聖会の最初の集会から主に語られました。

 パウロは、臆する霊にある愛弟子テモテに、「あなたがいただいているのは臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である」と言い、「その霊を再び燃え立たせなさい」と語っています。火がくすぶりかけた時にどうしたら再び燃え立つでしょうか。①薪を入れ続けること②風を送り込むことです。薪とは約束のみ言葉であり、入れ続けるとは、毎日告白することであります。風を送り込むことは、聖霊なる神様に満たされることであります。

 聖会から帰宅し早速始めました。毎日、扱うパソコンの前に、み言葉を筆ペンで書き貼りました。み言葉は次世代伝道育成に与えられたみ言葉です(詩篇69篇35、36節)。常に目につくところに貼り出し毎日読み告白します。そして聖霊に満たしてくださいと祈ります。おまけに、貼り紙の下に「くだくだ考えず、うだうだ思わず、ガタガタ言わず、み言葉に立ちあがれ!」とも書きました。

2013.7.28

 

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講壇の花

2013年07月28日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年07月21日 | 説教要約

「神に聞き従う」 使徒行伝4章13~22節

 最高議会の中に立たされたペテロとヨハネは、どのように自らの信仰を表したのでしょうか。

Ⅰ 神に従わない者達

 役人、長老、律法学者、大祭司らは、無学のペテロたちの確信に満ちた大胆な話し振りとその内容の前に驚いたのでありました。それだけではなく、主に癒された人がその証しとして立っているのでまったく返す言葉がありませんでした。しかしながら、彼らは悔い改めたのではなく、これ以上主イエスの名によって語ることを禁じ、ペテロ達を脅したのです。奇跡を見ても、神の言葉を聞いても、へりくだり悔い改めなければ福音はその人のものとはならないのです。

Ⅱ 神に従う者達

 一方、最高議会の中に立たされ脅されたペテロらは、彼らの言葉に聞き従わず、神の言葉に聞き従ったのです。すべての国民を弟子とし、キリストの証人となるとの主の命令に従い、語らない訳には行かないと宣言したのでした。釈放後、彼らは他の弟子達のもとに帰り、神を賛美し神に祈り、さらなる伝道をさせてくださいと願ったのです。そうした時に聖霊が注がれたのです。

 私たちも、どんな状況においても、ペテロらのように神の言葉に従って行きましょう。

2013/7/21 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年07月21日 | 天のマナ

 「主のみ手に委ねる」         

「主なる神は土のちりで人を造り(形造り)、命の息(霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」(伝道の書12:7)

 上記のみ言葉は、地上においての人のスタートとゴールであります。神は、人の体を土のちり(表面にある土)で造られ、命の霊をその鼻から吹き入れたことにより、人は肉体をもつ霊の存在として生きたのであります。そして地上での使命が終わりますと土から造られた肉体は土に帰り、神から吹き入れられ授けられた霊は神のもとに帰るのであります。

 先週の水曜日、一人の姉妹のご主人がこの地上での生涯を終え、天に召されました。入院されてからおよそ10日の突然の出来事でした。姉妹はご主人のために何十年も祈られてきました。その祈りは神に届き、神はその祈りを忘れることは決してありません。私達のなすべきことは、姉妹とご家族、近親の方々に主の慰めを祈り、ご主人の霊を神の永遠の恵みと憐れみのみ手に委ねることであります。。

2013/7/21

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講壇の花

2013年07月21日 | 生花
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天のマナ

2013年07月14日 | 天のマナ

 「蓄えられたものが」

 先日、ある姉妹が入寮している老人施設へ、訪問に行ってきました。ちょうどご主 人もおられて良き交わりの時をいただきました。姉妹とご主人の体調のことを聞かせてもらった後、賛美とお祈りの時を持ちましたが、その時突然、姉妹が一つの賛美を歌いだしました。左半身が麻痺した状態で、言葉も自由に話せずたどたどしい中での賛美です。「救い主イエスと」の1節を歌いだした姉妹に私たち夫妻も合わせました。そしてなんと歌詞を見ないでもはっきりと1節から4節まですべて歌い終わり、さらに「夕べ雲やくる」を続けようとされました。牧師が「歌いましょう」と声をかける前に、自ら積極的に賛美を歌う姿に、ご主人も彼女の信仰を見たに違いありません。福音は少しずつですが伝わっているのです。賛美だけではありません。この訪問の前に行かせていただいた時は、いつも姉妹が口にしていた二つのみ言葉(「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:72、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」ローマ8:28)を、私に言ってくれました。日々に蓄えられた賛美とみ言葉がいざという時に出てくるのです。あなたは蓄えていますか?

 2013/7/14

 

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主日礼拝説教要約

2013年07月07日 | 説教要約

「キリスト以外による救いはない」 使徒行伝4章5~12節

 「救われた経験はありますか?」と問われたら、どう答えるでしょうか?「救われた」という経験にも様々なことがあります。「重い病気の時に名医によって救われた」とか、「遭難したときに救助隊に救われた」とかなど、自分ではどうしようもできない万策が尽き、助けられた時に「救われた」と使います。

 誰が救い主を必要なのでしょうか。聖書は、「イエスは救い主である」と伝えます。それも「一地域の人や一時代の人にではなく、全ての人の救い主として、この世界に来られた」とです。ですから、主イエスはあなたの救い主です。すべての人に共通し、必要とされる救いとは何でしょうか。それは、すべての人間がもっている罪と死の問題であります。罪とは、この世界の創造者であり、人にいのちを与えられた神から離れて迷っていることです。その罪の結果、肉体の死だけではなく、永遠の死(滅び)に定まっていることです。罪と死の問題が解決しなければ、人間は平安に歩むことは決してできません。ですから救い主イエスは、身代わりの十字架によって私達の罪を負い解決し、復活によって死を打ち破られたのです。人類史上、罪と死を解決されたのは、この方以外にはいません。

 この救い主イエスを信じ、悔い改めて神に立ち返る者を、神はその者の罪を赦し、永遠のいのちを与え、イエスをよみがえらせたようによみがえらせ、この地上の生涯が終わったならば、永遠の神の国に入れてくださるのです。

「この人(イエス・キリスト)以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4章12節)

 2013/7/7 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年07月07日 | 天のマナ

 「あなたを造られた神は素晴らしい」

 インターネットで「生きる意味がわからない」と心の叫びを問う青年達が多いのです。それに対する答えは以下の通りであります。①「暇だからそんな考えをするのだ」②「あなただけが悩んでいるのではない。みんなそうだ。」③「今はわからなくても、人生経験を積んでいけばわかるようになる」というものがほとんどです。これらの答えは、真剣な心の叫びの問いに対して、①③は回避②は同情で、答える側も答えがわからずにいるのではないでしょうか。「生きる意味」を問うのは、人間として正常な根本的な素晴らしい問いであります。人間ならではの人間たるゆえんです。

 聖書は明確に「生きる意味」を語っています。まず「生きる意味」を知るには、人間が存在した理由を知る必要があります。人間は神によって造られたから存在し、そこには神の造られた目的があります。その目的に人間が生きる意味があります。神の造られた目的は、「神が人間を通して神の栄光(素晴らしさ)をあらわす」ことです。「生きる意味」とは、「私を造り生かしてくださっている神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することによって、神の栄光(素晴らしさ)をあらわすこと」です。

「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」(イザヤ43:7)

2013/7/7

 

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講壇の花

2013年07月07日 | 生花
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