静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2021年04月18日 | 天のマナ
「落胆した疲れから充実した疲れへ」  
 一日の労をしますと私たちは疲れます。肉体的に疲れるだけではなく、精神的にも疲れます。疲れには、「思ったように進まず、何の益になったのだろうかという、徒労に終わる疲れ」と「労は実を結んだという充実した疲れ」があります。一日が終わる時、私たちの疲れはどちらでしょうか。「すがすがしい疲れ、充実した疲れはそうはない」と思われるのではないでしょうか。確かに目に見える状況を見ると、働きが遅々と進んでいないかもしれません。ある時には、後退しているように見えるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンは、そのような見方ではなく、それとは別の信仰による見方をもっています。み言葉に、「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから(主イエス・キリストが勝利を取り与えて下さっているから)、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」(第一コリント15:58)。一見、「徒労に終わる疲れ」のように思えても、そうではないのです。信仰によりこのみ言葉に立つときに、「充実した疲れ」に変えられるのです。主にあって私たちの労苦は無駄ではないからです。一日の労を終えたなら、主への感謝をあらわしましょう。もし落胆した疲れを感じるなら、「労も時間も財も決して無駄になったのではない。実を結んでいる」と信仰によって捉えなおし、充実した疲れに変えていただきましょう。そして自らをいたわりゆっくり休んで新しい命と力をいただききましょう。

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講壇の花6

2021年04月12日 | 生花
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天のマナ

2021年04月11日 | 天のマナ
「なぜ(原因探しから)→何のために(目的探しへ)」    
 私たちは何か問題が起こると、「なぜ」と原因を探し求めます。なぜ病気に?なぜ災害に?なぜ交通事故に?なぜこんな目に?なぜ何が悪かったのか?と。しかし、理由を求めても原因は一つではなく複雑であることが多く、またたいていの場合、人は悪い方へ考えて解決にはなかなかないたりません。あげくの果ては、犯人を捜し、人を傷つけ人間関係が悪くなります。原因探しを否定しているわけではありませんが、原因探しをほどほどにして、その出来事を受け止め、目的探しへ切り替えていくことです。「なぜ」から「何のために」にへと思いを移行する時、その困難は、私たちの心を支配し、押しつぶすことができなくなります。
 ヨハネ9章で生まれつきの盲人を前にした時、弟子たちは主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからか?本人ですか。それとも両親ですか。」と「原因」を聞きましたが、主イエスは「何のために」と「目的」を答えました。そう、「神の業がこの人に現れるためである。」と答えられたのです。そして主は癒し神の御業を彼の上にあらわしたのです。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、病気をするたびに、新しい発見と成長があったことを、「自分は神様にえこひいきされているのではないかと感じる」と語っていました。私たちキリスト者は、「この病気の目的、この困難の目的は何だろう?神は何を教え何を成されようとしておられるのか?どんな主の御業がなされるのか」と目を主に向けようではありませんか。

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イースターの講壇の花

2021年04月04日 | 生花
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天のマナ

2021年04月04日 | 天のマナ
「主イエスの愛に感動して」
 先週は、神の独り子救い主イエスが十字架に掛かられた箇所のメッセージでした。その後の縦割りグループでの主の恵みの分かち合いは、ほとんどの兄姉が参加され、祈りの時が持たれました。私が参加させていただいたグループも幸いな分かち合いの時をもちました。分かち合いの後、二人の者がメッセージの応答と分かち合いであがった祈祷課題を祈りました。最初の者が祈り始められ、私たちは心を合わせていると、その方が祈りの中で再び、「主イエスの十字架はわたしの身代わり、私の罪を負い私を赦すため」という思いに迫られ、感激をし涙を流されておりました。主イエスが臨在し主イエスに触れられ包まれた時でした。グループの一同も、心を合わせ再び主イエスの十字架を仰ぎました。私は、姉妹の純粋で真実な信仰をその祈りを通して知ると同時に、自らはどうであるのか、何度も聴いている十字架のメッセージであると終わらせずに、しっかり受け止めているのであろうかと問われました。姉妹のように、自らもそのような信仰であり続けていと祈りました。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。」(詩篇51篇17節:口語訳)
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