静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2013年10月27日 | 説教要約

「神よ、立ち上がってください」 詩篇82篇1~8節

 神に立ち上がって地を裁いてくださるように要請する嘆願の詩篇であります。

Ⅰ 神の代行者としての自覚

 神の代行者として、神の民を委ねられ立てられている王が、神の御心にかなった裁きをするべきなのに、彼らがその働きをしない状況があったのです。王達は、神の信任に応じた働き(弱い者とみなしごとを公平に扱い、苦しむ者と貧しい者との権利を擁護し、彼らを悪しき者から助ける)をせず、自らの利益と自己保身のために心が奪われていたのです。自らを神に祭り上げ、代行者としての自覚とへりくだりがないのです。

Ⅱ 神の代行者としての働きを全うする秘訣

 神の代行者としての働きを果たす秘訣は、「すべての国民はあなたのものだからです」との告白であります。すべては自分の手にあるのではなく、神の手の中にあり、主のものであるとの自覚であります。神よ、起きて、地を裁いてくださいとの祈りであり、主が成してくださいとの思いが必要なのです。それが秘訣であります。

 毎朝、「神よ、立ち上がってください」と祈って始めましょう。

2013・10・27 説教者 杉本守

 

 

 

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天のマナ

2013年10月27日 | 天のマナ

「霊的な飢え渇きをもって求める」

 先週、九州にある二つの教会を三人で訪問してきました。どちらも10名前後の小さな教会ですが、地方で精一杯、伝道と教会形成をしている教会です。主にある励ましをしに行った私達でしたが、逆に励ましを受けました。長年、主に忠実に仕えている兄姉の信仰を見させていただき、主の御名を崇めました。

 最初の教会での交わりは、次世代の伝道育成について、学び祈りあうときでした。次の教会は、義母の牧師が長年牧会されていた教会であり、妻と兄弟達が育った場であります。そこでの交わりは、ただ懐かしいということだけではなく、信仰の成長に対する多くの質問や意見などが交わされ、信仰の実際生活から「きよめ」についてまで、主の恵みの時を持ち、霊的な飢え渇きによる求めの大切さを改めて実感しました。

 霊的激戦の地である日本、そこに置かれているクリスチャンの輝きはどんなに神に喜ばれて、神の目が注がれているでしょうか。ですから求めましょう。主は与えてくださいます。

2013・10・27

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講壇の花

2013年10月27日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年10月20日 | 説教要約

「聖霊を受ける」 使徒行伝8章14~24節

 ステパノの殉教を機に、エルサレム教会への大迫害が起こりました。ステパノの説教が、単に彼個人だけの考えではなく、教会全体の主張であることを彼rが知ったからでした。しかし、福音は、この大迫害を逆手に取るように、各地に広まり拡大して行ったのです。

Ⅰ 聖霊を受けるキリスト者

 サマリヤの人々が神の言葉を受け入れたと聞いたエルサレム教会は、ペテロとヨハネを遣わしました。果たして同じ信仰をもち、同じ救いを受け、同じ教会が形成されているのかを知るためでした。彼らは、サマリヤの人々の信仰を見て、彼らがサマリヤの人たちに手を置いて祈ると聖霊が降りサマリヤのひとたちは聖霊を受けたのです。サマリヤの人たちも主イエスの同じ救いを受けていることが示されたのです。

Ⅱ 聖霊に満たされるキリスト者

 聖霊によってイエスを主と告白する者は、さらに聖霊に満たされる必要があります。聖霊に満たされるためには、ここに出てくるシモンのように高慢で自分の栄光のために間違った求めをするのではなく、神の前に謙り神に服従し、神の栄光のために求めるべきであります。

 内におられる聖霊なる神に、日々、満たされて歩んでいきましょう。

2013/10/20 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年10月20日 | 天のマナ

 「自宅、病室、施設の部屋が主の臨在する礼拝の場と」

 主なる神は、週の始めの日にキリスト者が礼拝堂に集まって、礼拝をささげることを望んでおられます。しかし主なる神が臨在する礼拝の場は、礼拝堂だけではありません。主なる神はどこにでもおいでになり、主に賛美や祈りがささげられ、主を拝する者達の集まりに臨在し、み言葉を語って下さるのです。

 ここ二週間、二人の姉妹と一人の兄弟が入所しておられるそれぞれの施設の部屋、別の姉妹の家の部屋で、4~6名が集い賛美や祈りがささげられ、み言葉が開かれる中、そこは主の臨在の場となり礼拝の場となりました。それぞれの兄姉の信仰が顔にあらわれ、主にある輝きと平安が増し、訪問をさせてもらった方も、訪問を受けた方も共に、主の恵みによる励ましを受けました。人間の本質である霊的な励ましは、表面的な心情の励ましよりも深く、私たち一人一人に霊的ないのちを満たすものであります。世界中どこででも主を礼拝する場とさせていただき、主の臨在をいただきましょう。

2013・10・20

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講壇の花

2013年10月20日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年10月13日 | 説教要約

「主なる神に従い歩め」 詩篇81篇1~16節

 この詩篇は、仮庵の祭りに歌われた詩篇であろうと言われています。それは単なる収穫の感謝だけではなく、出エジプト後の荒野での仮小屋生活において、主なる神が必要を備え導いてくださったことを感謝する意味合いがあり、民はこの祭りで仮小屋生活をしたのでありました。

Ⅰ 神の神の民への願い

 仮庵の祭りへの召集(1~5)に続き、6節からは、主なる神からのメッセージが語られています。そこには神の神の民への願いがあらわされ、その内容は、神の民が神に聞き従い神の道を歩むことであります。神の御思いは明白であります。

Ⅱ 神に聞き従う者への神の祝福

 神のこの詩篇でのみ思いは、「信仰の口を真の神に向かって広げよ」ということです。偶像ではない、どんな時でも真の神に広げるのです。なぜならば、真の神こそ、私たちを満たすことができるからであります。たとえ岩の上であっても蜜を。ききんの際にも神は必要を与えるのです。

 神は、私たちが信仰の口を大きく開くのを待っておられます。神に従い歩むこととは、信仰の器を大きく神む向かって開くことなのです。

2013.10.13 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年10月13日 | 天のマナ

「み言葉を蓄える幸い」 「神の国は言葉ではなく、力である。」(Ⅰコリ4:20)

 先週の月曜日より、毎朝のデボーションでいただいたみ言葉を筆ペンで書き、トイレのドアに毎日貼るようにしました。決して上手ではない字ですが、一日数回は必ず目に止まり、み言葉を思い起こしては、み言葉に養われる日々であります。あと数年で自立し独立して行くだろう娘達にも、最高のプレゼントになることと思っています。そのみ言葉の横に、もう一つのフレーズ(句)を筆ペンで記します。こちらは、3日毎に張り替えますが、その内容は、人生で得た信仰的教訓、信仰良書(本)で感銘を受けた言葉などさまざまです。頭でっかちにならないようにと思いつつ、これからのクリスチャン人生の中で、心に蓄えられたみ言葉が、ふっと思い出され困難や試練を乗り越える導きや力となり、家庭をつくり親となる中で、つたない私のフレーズが助けになればと願っています。口で言ったりすると押し付けがましかったり、煙たがれるので、グッドアイデアだと思っています。他にもグッドアイデアありましたら教えてください。分かち合いましょう。

2013.10.13

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講壇の花

2013年10月13日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年10月06日 | 説教要約

「神の僕を支える神」 使徒行伝7章54~8章3節

 7人の執事として選ばれた中のステパノの殉教から、主のみ言葉をいただきましょう。ステパノは、偽証者たちが訴える議会に立たされても、石を投げられ殉教していく最中にあっても、彼の顔は天使のように輝き、彼の言葉は福音を伝え、赦しを与えとりなしをなし、神への信頼で溢れていました。殉教の中でもあっても、豊かな神の栄光があらわれたのはどうしてなのでしょうか?

Ⅰ 主を見上げる神の僕

 ステパノを追い込みたい者達は、偽証人を立てます。しかし、ステパノは福音を語り、神はどこにでも存在しどこにでも自らをあらわし救う方であると述べます。さらに、預言者を迫害し、救い主を十字架に付け、神の言葉に逆らう彼らの罪を指摘し、悔い改めの時を与えます。けれども、彼らは悔い改めずステパノに対して激怒するのです。このような中、ステパノは輝いていました。それは、彼が人々を見ていたのではなく、天におられる父なる神と主イエスを見ていたからです。

Ⅱ 神の僕を支える神

 彼らは、ステパノを石で打ちます。しかし、その中でステパノは主を信頼し、自らの魂を主なる神にゆだね、石を打つ者達を赦しとりなすのです。彼はこのようなことができたのは、主イエスが彼を特別に支えていたからであります。そして、主イエスが彼のうちにいて、主イエスの十字架の祈りを彼になさしめたのです。

 神は、天をみつめる神の僕を常にみていて、どんな危機においても必ず支えてくださり、神の栄光をあらわす場、神のみ業をあらわす場とされるのであります。決して恐れることはありません。

2013/10/6 説教者 杉本守

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