静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年03月25日 | 説教要約
「十字架によるとりなし」 マルコによる福音書15章16~32節
 主イエスの十字架の箇所を来週と二回に分けて共に見ていきましょう。
 今回は十字架の前半です。

Ⅰ 救い主を拒否する者達
 救い主を前にしながら、救い主を受け入れず、それどころか救い主を拒否し十字架につけた者達の姿が聖書に書かれています。これらの者達は、神の前に謙るのではなく、自らの思い描く救い主でないと拒否するのです。まさしく、自らを神としています。主イエスを十字架に付けたのは、こうした人間の傲慢と言う罪であります。
Ⅱ 人の罪を負いとりなす主イエス
 こうした人間の罪を負って、主イエスは十字架に掛かり、そららの罪の故に神の裁きを私達の代わりに受けられたのです。その十字架上での最初の言葉は、十字架に付ける者達への言葉であり、主イエスが罪を負われた者達への言葉でありました。「父よ(父なる神よ)、彼らを赦してください。彼らは何をしているかわからずにいるのです」との赦しととりなしの祈りでした。

 あなたの罪は主イエスが十字架で負ってくださいいました。そして、主イエスはあなたを赦して下さるのです。この救いを信じ受けて、自分のものといたしましょう。
 
 説教者 杉本守牧師
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天のマナ(2007/3/25)

2007年03月25日 | 天のマナ
「神の救いを仰ぎ見る」        
  教会の外の掲示板に、ある聖書の言葉が貼られており、通る度にその御言葉が目に留まり、励まされ強められています。その御言葉とは、「人はみな神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:6)
 先日、本部で持たれた二日間の教団の総会に、代議員として始めて出席をいたしました。今年度の報告を聞き、感謝をささげると共に、来年度のビジョンと計画が話し合われ、計画されました。ここ十年位でしょうか、キリスト教界全体が伸び悩んでいる報告を耳にしました。私達の教団も教会も、社会と比例するように高齢化が進み、現状維持又は減少傾向にあります。このような中で、救い主イエスが命を払ってなしてくださった十字架の救い、死を打ち破って下さった復活の福音に力がなくなってしまったのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。「この人(イエス)以外に救いはない」との福音は、力を失うどころか、人を救ってなおあまりがあり、2000年以上、どんな困難な時代の中でも、世界にあふれるばかりの人々を救い続けてきたのです。今も、私達はこの福音に立ち神を見上げるのです。
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講壇の花

2007年03月25日 | 生花

春の花がいっぱい!
桜 アイリス フリージア



2007年3月25日

講壇の生花 撮影S.I 

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主日礼拝説教要約

2007年03月25日 | 説教要約
「あなたのために祈った」 マルコによる福音書14章27~31、66~72節
 
 十字架を前にして、主イエスと弟子達との関係を見ていきましょう。
Ⅰ 主イエスを裏切る人間の弱さ
 三年間、弟子達は主イエスと歩み、主イエスの宣教、奇跡、いやしの業を目の前で見てきました。主イエスが十字架に掛かられる事、よみがえって先にガリラヤにいくことを語られた時、弟子達は、「たとえ死がやってきても主イエスに従うこと」を力をこめて宣言し始めました。
 しかし、主イエスが捕らえられると弟子達は逃げて行ってしまったのです。ペテロも、主イエスの「にわとりが鳴く前に三度私を知らない」という言葉通り、主イエスを否認したのです。人間の決心や決断の弱さ、また裏切るという罪深さを見ます。

Ⅱ 弱い人間を立ち上がらせる主イエス
 裏切ったペテロを主イエスは、あわれみのまなざしで見られます。それは、ペテロの信仰がなくならないように祈られた主イエスの心のあらわれでした。
 ペテロは、その主イエスのお心に打たれ、自らの弱さ、罪深さを認め悔い改めるのです。主イエスは、彼をゆるし立ち上がらせて大いにお用いになさります。
 私達もペテロや弟子達と同じものを持っています。しかし、主は私達ためにも祈り、ゆるし、立ち上がらせてくださるのです。この主イエスと共に歩みましょう。
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受付の花

2007年03月18日 | 生花



2007年3月18日 撮影S.I

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天のマナ(2007/3/18)

2007年03月18日 | 天のマナ
「教会文集『枝』による恵み」        
  「枝」を読んで恵まれ教えられました。兄弟姉妹の恵みの分かち合いを通して、主に目を向けることに気づかせてくださり感謝いたします。この「枝」を編集・発行してくださった教育部の方々に感謝します。また、主の恵みを独り占めにしないで、分かち合って投稿してくださった兄弟姉妹に感謝いたします。
 誰の言葉を信じて私達は信仰生活を歩むのでしょうか。サタンは巧妙で、私達の弱さにつけこみ主イエスを疑わせる言葉をかけ、自分に落胆させる思い、不安にさせる思いを起こさせるのです。また時に私達は、自分自身に対して自己嫌悪をし、自分にマイナスのメッセージを送ります。しかし、キリスト者はこれらの言葉に耳を傾けるのではなく、主イエスの御言葉に耳を傾ける必要があるのです。あなたを、私を愛して止まない主イエスは、どんな御言葉を私達に語ってくださっているのでしょうか。「あなたは、私の目に高価で尊い」(イザヤ43:4)。
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主日礼拝説教要約

2007年03月11日 | 説教要約
「神の正義」(イザヤ書5章1~7節)

 旧約における神の民イスラエル人は、ある程度の実を結んだが、神の御心にあわない生き方をしていた。私たちの姿も見た目には、信仰者として生きているが、神の望んでいるような実を結んでいない。人間の正義ということにおいても、時に弱い者への暴力となる。

 神の正義の前には人間は滅びるしかない。しかし、神は人間の不義を赦すために、その罪をご自分にぶつけられた。それが十字架である。人を義に導くためには大きな痛みを伴う。その痛みを主イエスは十字架の上で負ってくださったのである。

 私たちのために心を注いでくださった神様に、応答して歩んでいこう。

2007年3月11日
説教者 酒井有希子(清水教会)
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講壇の花

2007年03月11日 | 生花

2007年3月11日
今年も見事に咲きました!
シンビジウム  M.T姉

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天のマナ(2007/3/11)

2007年03月11日 | 天のマナ
 「正しい裁きをなされる方」        

 冤罪であった鹿児島選挙買収事件。この自白を強要された出来事は、当の本人達も、ニュースで聞く私たちも心痛めたものでありました。特に被害者の悲しみや心身の痛みは、私達には想像できないものがあるでしょう。また、取り戻せない時間は、どうしたらいいのでしょうか。ぽっかりと空いた心に、それを包んで余りある神様の豊かな癒しと慰めと励ましを祈るしかありません。憐れみの神が触れて下さいます様に。

 もちろん、司法制度、裁判官や検察官の働きは貴いものですので、それを尊重することは必要でありますが、人間のすることは時に過ちをするものであります。人間は間違いをおかすのですから、救い主イエスの十字架が必要であり、失敗の罪を認め、神への悔い改めと人への謝罪が必要であります。大切な働きをするこれらの方々に、神の憐れみがあり、間違った判断をすることがないように祈り支えていきたいと願うのであります。やがて、日本でもアメリカのように陪審制のようなものが採用されるようであります。私達自身も神の憐れみを求める以外にありません。間違いのない正しい裁きをなされる唯一の方、神に頼りながら。
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主日礼拝説教要約

2007年03月04日 | 説教要約
「神の御心がなりますように」マルコ14章32~50節

 4月に受難(十字架)と復活(イースター)を迎える時期となりますので、十字架の前後の箇所から、共に御言葉に聞き入りましょう。今回は十字架を前夜のゲッセマネの祈りです。
 Ⅰ 心を注ぎだす主イエス
 何よりも大切にしていた父なる神様との交わりが、人類の罪を負うことによって、父なる神から閉ざされ切られ、また父なる神から見捨てられ、神の圧倒的な怒りを身に受けることを、主イエスは苦悩し、心を父なる神に注ぎだしました。神に見捨てられることは私達の想像を絶します。

 Ⅱ 御心に従う主イエス
 「出来ますならば避けたい」と祈る主イエス。そして、主イエスの祈りはさらに「父なる神の御心がありますように」と続きます。人類の罪はあまりにも汚くて、罪なき救い主イエスがその罪を負い、命を注ぎだすしか罪のゆるしはありません。そのことが父なる神の御心と確信したゲッセマネの祈りでした。主イエスの祈りは両方とも応えられたのです。十字架は私達人間の救いのために通られましたが、父なる神は三日の後、主イエスを復活させ、永遠に父なる神の右の座に座らせ、永遠の交わりを回復させてのであります。さらに、人類の救いをも成し遂げたのです。

 私達を救うためになされた父なる神、子なる神救い主イエスの御業にあらわされた愛を感謝するのです。神の前に心を注ぎ、「神の御心がなりますように」と祈る私たちでもありたいのです。

2007年3月4日
説教者 杉本守師
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