静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年05月29日 | 説教要約

「天国を得る」 マタイによる福音書13章44~46節

主イエスの天国のたとえ、高価な真珠を見つけた商人の箇所を、二つの視点に立ち御言葉をいただきます。

Ⅰ 素晴らしい宝である天国

 まずは、商人を私たちとし、この高価な真珠を天国と見ていきます。この商人は高価な真珠のために、喜んですべてを犠牲にしこの真珠を買い取りました。それはなぜでしょうか?この高価な真珠の価値がそれほどのものだったからです。まさしく天国とはどんなものよりも価値があり、すべてを犠牲にしても得たいほどの価値があるということです。この商人のように私たちは、天国の価値に気づいているのでしょうか?(ピリピ3:8)

Ⅱ 天国を与える神

 二つ目は、商人は主イエスで、この高価な真珠は私たち一人一人です。まさしく天国とは神の愛と恵みが溢れているところです。主イエスは、私たちを高価で尊いと愛し、人となり十字架に死にまで自らを投げ出し、贖ってくださいました。それは私たち一人一人が救われるためにです。あなたはそれほどに神の目に高価で尊いのです。愛されているのです。

 主イエス・キリストにおいて与えられている天国、神の救いを受け、神の国の恵みに生かされていることをクリスチャンはもっと感謝していきましょう。

2010・5・29 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年05月29日 | 天のマナ

「主なる神の摂理」  ローマ8章28節

 キリスト者にとって「偶然」とか「運命」とかは、全く関係がありません。「偶然」や「運命」には

誰の意志も何の計画もないのです。キリスト者は、この世界に、この歴史に、この教会に、ひ

とり一人の人生に主なる神の意志があり、愛なる神の計画があると信じ、そして体験している

からであります。

 先日、創立60周年記念のために、教会の歴史の写真を組み合わせた映像を作製してお

りました。感謝会で披露する予定でありますが、創立当初からの写真とそこに映し出された

牧師や兄弟姉妹、教会堂の移歴を見ておりますと本当にわかることがあります。それは、教

会の歴史は偶然ではなく、主なる神の意志による深い導き、神の摂理のうちにあることを明

確に知らされることです。その主なる神の摂理は、主イエスの再臨のその日の教会の完成ま

で、これからも確かに私たちの上にあるということであります。ハレルヤ!なんと素晴らしいこ

とでしょうか。ただただ、主の御名をほめたたえます。

 

2011/5/29

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講壇の花

2011年05月29日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年05月22日 | 説教要約

「助けなる神を待ち望む」詩篇42篇1~11節

 この詩篇は、敵の襲来によりエルサレムの都を追い出され、ヘルモン山麓にあった詩人が、エルサレムでの礼拝を思い起こしながら、生ける神との出会いを渇望しているものであると言われています。

Ⅰ 主なる神を慕い求める者

 エルサレムの都を追い出され、敵からは「お前の神はどこにいるのか」とののしられる苦境の中で、この詩人の魂は神を慕いあえいでいます。それは神によってしか彼の魂は満たされず、鹿が谷川を求め渇きを潤したいように、渇いていたからでありました。さらに彼の心はうなだれ思いみだれていました。しかし、彼はその自分自身に言い聞かせます。「どうして、なぜ、うなだれ思いみだれる必要があろうか。私には真の生ける神がいるではないか。神を待ち望め」と。

Ⅱ 満たされる主なる神

 神を慕う者に対して神はどのように応えるのでしょうか。詩人は、過去の恵みの経験からも知っていました。神は、神を慕う者にいつくしみをほどこし、なお助けを与え経験させ、神をほめたたえる者に変えさせられるということです。ですから、詩人はそう賛美したのです。

 私たちは、うなだれているのでしょうか、それとも主なる神を慕っているでしょうか。神を慕う者を必ず神は満たし、神をたたえる者にされるのです。今週もこの御言葉を経験させていただきましょう。

2011/5/22 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年05月22日 | 天のマナ

 「一番幸せな者」 

 

 ある人が、何千もの賛美歌を作詞したクロスビーにこう質問した。「神様はあなたにこれほどの才能を下さったのに、なぜ目が見えないようにされたのか私にはわかりません」。クロスビーはこう答えた。「もし私がこの世に生れた時ひとつだけ願いが聞かれたのなら、私は盲人にならせて下さいと言ったはずです。」「えっなぜですか?」「それは私が天国に行った時、初めて見るお方がイエス様なのですから」。また、彼女はこんな言葉を残している。「信仰人は不運を不平する人ではなく幸運を創造する人である。私に一切の同情心を持たないで下さい。なぜなら私はこの地上で一番幸せな人なのですから」。(ゴスペルベンチャー教会が贈る信仰偉人伝「ああ、この人も!」より)

 

「平和をつくりだす人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5章9節) 

神の助けにより神の栄光をあらわす者として今週も歩もうではありませんか。

2011/5/22

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講壇の花

2011年05月22日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年05月15日 | 説教要約

「多くの実を結ぶ者は」 マタイによる福音書13章1~9節

 主イエスの「種まきのたとえ」から、主の御心に聴き入りましょう。「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(9節)

Ⅰ 多くの実を結ぶ

 私たちは、このたとえに出てくる良い地でありたいと願っています。それは30倍、60倍、100倍の多くの実を結ぶことができるからです。その実とは、信仰の実、品性の実、伝道の実ということができるでしょう。それぞれの地とは私たちの心の状態をあらわしています。良い地である良い心とは、頑なな心ではなく、奥底にかたい自我をもっている心でもなく、世のことに感心が強い世俗的な心でもなく、主の前にへりくだった信仰に立つ心であります。種が実を実らす環境、私たちの心もそのような環境を持ちたいのです。

Ⅱ 多くの実を結ぶ秘訣

 種とたとえられている神の言葉(聖書)には、命があり力があります。その力が私たちのうちに体験させらるのは、聖霊なる神によってであります。多くの預言者や義人ははっきりと福音(十字架と復活)を見る事ができませんでしたが、幸いなことに弟子達は主イエスによって、私たちは聖霊なる神によってはっきりと見ることができています。私たちの内に蓄えられているみ言葉には命があり力があり、聖霊なる神によってそのみ言葉は芽を出し根を張り、茎、枝、葉、花、実を結ばせるのです。私たちがすべきことは、み言葉を内に蓄えることなのです。

 今週もいただいたみ言葉を口ずさみ、み言葉の命、力を体験させていただきましょう。

2011/5/15 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年05月15日 | 天のマナ

「確かなことが二つある」 

「この人による以外に救いはない。」(使徒行伝4:12)

 先日、映画「アメージング・グレイス」を鑑賞してきました。作詞をしたジョン・ニュートンのこ

とはご存知だと思います。彼は、奴隷船の船長でしたが大嵐に遭い、そこで自分の罪を認

め悔い改め神の助けを請います。その祈りを聴かれた神は、彼を大嵐と罪から救ったので

した。その後、彼は牧師となります。

 今回の映画は、英国の歴史の中にある実話をもとにして制作されました。それは、一人の

若き政治家が、英国の奴隷船廃止の為に尽力を注ぎ、その法案を何度否決されても挫けず

に、ジョージ・ニュートンの証しや彼のアメージング・グレイスの作詞を通していただく神の励ま

しによって、その法案を成立させるのです。

 ジョージ・ニュートンが若き政治家に語った次の一つの言葉が忘れられません。

「確かなことが二つある。私が罪人であること、イエスが救い主であることである」。

 

2011・5・15

 

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講壇の花

2011年05月15日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年05月08日 | 説教要約

「へりくだる者への神の恵み」 詩篇41篇1~13節

 「貧しい者をかえりみる人は幸いである」(1節)とあります。誰もがそのことは大切であり、そうありたいと願いますが、なかなかそうできない私たちの姿があるのではないでしょうか。どうして詩人はそう語りそのようになせたのでしょうか。

Ⅰ 神の前にへりくだる経験

 この詩人は、3~4節にあるように、大きな病いを経験したようです。その中で罪(高慢な思い)を示され神に砕かれ、へりくだることのお取り扱いをうけたのでした。病の中、彼に敵対する者達はあざ笑い、彼に親しい者達も彼に背きくびすをあげたのです。彼は自分自身も親しい人さえも当てに出来ず、ただ神の前にへりくだり神の前に叫んだのでした。

Ⅱ 神の前にへりくだる者への神の恵み

 この詩人は、自分の罪を認めました。そして神のあわれみによる赦し、病いの癒しと立ち上がる力を求めたのでした。そのような者に神の恵みは流れ、彼の病を癒し、幸いな者とされたのです。そして彼はへりくだり、さらに貧しい者を助けたのでした。

 神の前にも人の前にもへりくだる者とされ、弱っている者に心を配る人とならせていただこう。

2011/5/8 説教者 杉本守

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