静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年07月31日 | 天のマナ
 「神が造られた存在の尊さ」

 人の価値や尊さはどこにあるのでしょうか?人間はすぐに、社会はすぐに、行動やその結果の功績で、人の価値や尊さを判断しようといたします。そこには他者と比べるということが常にあります。横を向き、人に認められられるために、社会に評価されるために生きるのは、とても不安定な生き方です。良い結果が残せた時は価値があり、そうでないと価値がないという、上がり下がりの生き方はだからです。人は、行動やその結果の功績ではなく、神が造られた存在ということに価値があるのです。横を見て人と比べず、上を見て(神を仰いで)、神が世界にひとりだけの尊い存在として私を造って下さったことに、すでに尊さと価値があるのです。また、神は独り子を犠牲にしてまで、あなたを愛しているから価値があるのです。何かをした、しないにかかわらず、あなたはすでに尊い存在なのです。認められるために頑張るのではなく、常に尊い者として認められていることに感謝し喜び、精一杯生きていくのです。
 先週、恐ろしい事件が起こりました。障害者、生涯病床の方々、病床の老人の方々は、尊くないのでしょうか。いいえ、尊く価値がある方々です。その存在を通して、神の栄光をあらわし、私達に慰めや励ましや笑顔を与え、心の奥に仕舞い込んでいる優しさを引き出してくれているのです。ギリシャ語で人間は「アンスローポス」です。この語の意味は、「上を見る者」です。尊く造って下さった神を見上げて生きるのが人間なのです。
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天のマナ

2016年07月24日 | 天のマナ
「夏季聖会の恵み」             
 
 紀元前450年頃のエレミヤは、エルサレムのことがとても気になっていた。「かつてわが民に与えられた約束の地、栄えた町、最近はどうであろうと」。ある時、町は荒廃のままであるという思ってもみなかった状況を知った。「バビロンから帰還した民によって、すでに復興されていたのではないのか」と彼は泣いた。そこまで泣かなくてもいいのにと思うくらい泣いた。「神様、あなたは真実なお方ではありませんか・・・なのに、どうして荒廃した現状なのでしょうか・・・」 そして、彼は、「町がこのような廃墟になってしまったのは、先祖も、そして私も、罪を犯したからです・・・」と真剣に、自分のこととして、悔い改める。この祈りを聞いてくださる真実なあわれみ深い神は、決して捨ておくことをなさらない。ここから城壁と神の民の再建が始まっていく。

 「さあ、立ち上がって築こう。」(ネヘミヤ2:18)。7月18~20日まで、箱根で行われた夏季聖会では、「リバイバル もう一度立つべきところに立つ」をテーマにして、ネヘミヤ記を中心に多くのメッセージが取り継がれた。恵みのとき、幸いのとき、チャレンジのときであった。リバイバルとは信仰復興のことである。あるべき姿へ、主にすがり祈り求めていくことができますように。 
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天のマナ

2016年07月17日 | 天のマナ
「主の御手の中にある命」 
          
 世界各地でテロが起きています。また紛争や戦争があります。日本でも殺人のニュースが毎日のように放映されています。また、自殺者は毎年3万人前後であります。人間の地上での生命は、神の所有で神の御手の中にあります。決して自分のものでもなく、人のものでもありません。なぜならば、神が造り、神が人に使命を果たし終えるまで、生きるように預けておられるからです。人間は生命を管理し用い生きるのです。ですから、神のものである生命を人がどうこうしてはいけません。人を殺してはいけませんし、自分を殺してはいけません。いずれも神のものであり、人はとってはならないのです。

 新約時代に生きるクリスチャンである私達の歩みは、日々、戦いです。しかし、その戦いは、血肉に対するものではありません。人、民族、国に対しての武力をもっての戦いではありません。神と人との関係や人と人との関係を壊しにかかる悪魔の策略に対する霊的な戦いです。クリスチャンの武具は、信仰、祈り、御言葉、愛であります。これらの武具は、人の殺すのではなく、人を生かすものです。「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」(エペソ6:10)    
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天のマナ

2016年07月13日 | 天のマナ
「霊に燃え、知にも整理されて」      
 
 信仰により救いの体験をし献身をした若い私に、東京聖書学院での授業は、知的な整理を与え良き学びとなりました。特に、一年生の時の「栄光の富Ⅰ~Ⅳ(小林和夫著)」を使った組織神学と四年生の時の「キリスト教の確かさ(小林和夫著)」を使ったウエスレー神学の学びは、今でも信仰の知的な土台となっています。主日礼拝にて、詩篇からの説教が終わりましたので、今後は、引き続き創世記(講解説教)と新たに聖書より体系的な組織神学(主題説教)を取り次がせていただきたいと願っています。すでに6月の第二主日に敬子牧師が、組織神学の第一章「啓示論」の特別啓示の聖書(正典)について語って下さいました。聖書の由来、聖書の権威、聖書のみが救いと信仰生活の基準であることなどでした。神学用語は聞き慣れないものですが、プリントも配布しわかりやすく取り次がせていただきます。説教は、礼拝の場において説教者と聴衆者の両方の責任でなされるもの(求め、祈り、傾聴、霊的交わり)ですから、共に心して臨みたいのです。(ローマ10:17)
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天のマナ

2016年07月10日 | 天のマナ
「あなたを救い新しくする神」          
 求めをもって聖書を読み教会で礼拝をささげていると三つのことがわかってきます。一つ目は、「神が存在している」ということ、二つ目は、「私は罪人である」ということ、三つ目は、「神は私を愛していて救って下さる」ということです。私達は知的に理解してくるだけではなく、永遠に生きておられる神が、私達に語りかけ私達に迫ってきて私達に触れて下さるのです。神の救いを信仰によって体験していくのです。
 先週、92歳で天に召された兄弟は、除隊後、病の中で生きる価値もないと自分で思っていました。パチンコ屋に通って、空しい日々を過ごしていました。そんな時、親戚に勧めらて教会へ行くようになり、聖書を読みようになりました。そうしていくうちに、上記の三つのことがわかり、真の神を信じ、自分の罪を悔い改め、救い主イエスを受け入れ救われたのです。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:24)
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天のマナ

2016年07月03日 | 天のマナ
「生きているキリストと交わ生きるクリスチャン」  
                      
 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。」(Ⅱコリント13:5)。このみ言葉は、先週の午前の祈祷会でいただいた箇所であります。
いつの間にか、自分の考えや自分の都合に合わせた信仰になっているのではないでしょうか?祈らなければ、神との命の関係を持つことはできないでしょう。み言葉を聴かなければ、神の御心を知ることはできないでしょう。み言葉を信じ従わなければ、神の大いなる御業は体験できないでしょう。救われた時に内に入って下さった生けるキリストが、今もクリスチャンの内にいて下さっています。この方と命の関係をもち、この真理なる方に従って行く時に、クリスチャンとして力強く歩んで行けるのであります。聖書を読み御言葉に聞く耳、祈る口、奉仕する手、福音を運ぶ足、内にいて下さるキリストと生きた交わりをする信仰者にますますされていきましょう。
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