静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年01月30日 | 説教要約

「心にあることが口に出る」 マタイによる福音書12章17~37節

 日々の生活の中で、私達はどんな言葉を口から出しているでしょうか?一日の自分の言葉を録音していたら恥ずかしくなるのではないでしょうか。

Ⅰ 心からあふれることを口が語る

 「木が良ければ良い実を結ぶ」「木が悪ければ実も悪い」とあるように、内にあるものが外に出るのです。思わず出した言葉が「心にもない」と言って取り繕いまずが、実は心にあることが自然と口に出るというのです。口から出る言葉が心をあらわしているのです。まさしく、ヤコブ3章にあるように、人は言葉において多くの過ちを犯します。

Ⅱ 審判の日に自分の言葉によって裁かれる

 ヘブル9:27では、人は死ぬことと死んだ後裁きを受けることが定まっているとあります。その時に、人は自分の語ってきた言葉に対して言い開きをしなければなりません。また、その語ってきた言葉によって自らも裁かれるのです。そしてその結果は「罪あり」です。しかし、聖霊に心を閉ざさずに、自らの罪を認め悔い改め、主イエスを救い主と受け入れた者は、罪赦されるのであります。なぜなら、主イエスがその者の罪を負われ神の裁きを受けたからです。この故に裁きの座には立ちますが、裁かれないのです。

 言葉で罪を犯しているあなたは罪人です。しかし、主イエスを信じるならば赦されるのです。その罪は遠く離されるのです。その代わりに神に義とされるのです。主イエスを信じ心が変えられるならば、言葉も変えられてきます。

2011・1・30 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年01月30日 | 天のマナ

 「礼拝を重んじる」 

 

クリスチャン生活の中心は、礼拝です。軸がしっかりし土台が堅固であればあるほど安定

します。先週の祈祷会でも伝道の書より、礼拝の大切さが語られました。「神の宮に行くとき

(礼拝のとき)には、その足を慎むがよい(新改訳:自分の足に気をつけよ)」(伝道の書5:1)とあります。いつの間にか礼拝が習慣化、形式化、形骸化し、宗教的義務となり機械的に

守るような傾向になっていないかを吟味する、顧みなさいということです。

 「近寄って聞くのは」とそのあとに続きます。礼拝とは、求めをもった私達が真の神の前に

畏敬を持ちへりくだりひざまずき、神との霊的いのちの交わりにおいて、神の御言葉に聴き

照らされ悔い改め、満たされるものです。

礼拝が始まるときに、礼拝堂にいる兄弟姉妹が少ないことをおぼえます。真の神の前に

出る備えができているでしょうか?遅れることがないよう自分の足に気をつけましょう。

 

2011・1・30

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講壇の花

2011年01月30日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年01月23日 | 説教要約

「あななたの道を主に委ねよ」 詩篇37篇1~7節

この詩は、表題と25節よりダビデの晩年の作と言われています。彼は自分の信仰生活の歩みをふり返り、信仰の証として詩っています。

Ⅰ 心を悩ますな(信仰者の消極的歩み)

 悪をなす者、不義不正をなす者に対して、心を悩ますな(腹を立てるな)といわれています。この世の中の不正をなして栄えている者に対してねたみを起こして怒る事をしてはならないということです。なぜなら、彼らは必ず衰え、栄えても一時的であり長続きはしないからであります。また、必ず神の裁きがあるからです。

Ⅱ 主に委ねよ(信仰者の積極的歩み)

 キリスト者がなすことは、どんな時にも主なる神に信頼し善を行うことです。主なる神に委ねていくときに、平安を得、主なる神が私達の道を成し遂げ、神の国を継ぐのです。、

 今週も主なる神に従い、喜んで善を行っていきましょう。

2011.1.23 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年01月23日 | 天のマナ

「宣教のために」 

「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」ロマ10:15

 

 1月10日に教区の新年聖会が持たれ、主からいただいている使命に立つことの幸いと恵

みを、もう一度確認いたしました。集えなかった方々もCDを購入して聴かれることをお勧

めいたします。その聖会で教区の兄弟姉妹が、私達の会堂返済のために、献金をささげて

くださいました。そして、二人の先生が代表で祈ってくださいました。その祈りに一つのこと

を気づかされたのです。

 午後に祈ってくださった先生の祈りは、「静岡教会の方々は、地域の方々を愛し、地域の

人達に福音をつたえるために、宣教のために精一杯ささげておられます。」という内容でした。私は「はっと」しました。会堂という建物に目がいっていて、会堂という建物のために献

金しているという考えになっていたのでした。そうではなく、「私達は、会堂を通してこの町

の人達に宣教をしているのだ。宣教のためにささげているのだ」ということでした。

 

2011・1・23

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講壇の花

2011年01月23日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年01月16日 | 説教要約

「手を伸ばしなさい」 マタイによる福音書12章1~16節

 安息日についてのこのやり取りの中から、主イエスのみ言葉をいただきましょう。

Ⅰ 人が生かされるための安息日

 安息日は、神が人を祝福する日として与えられた日であります。

人は、働きを休み体を休め、神の前に出て神を礼拝し、全人格的に

神の恵みに満たされるのです。安息日の目的は、「人が生かされる」というここにあります。

しかし、当時はその目的は忘れられ、形骸化していき、人を縛りいのちを奪っていたのです。

Ⅱ 神の救いを受ける安息日

 主イエスとイエスの弟子達の行動が、労働にあたるとして非難していたパリサイ人の

訴えは的外れでした。主イエスは、安息日は人が生かされるためにあると示し、手の

不自由な者の手を癒されたのです。

 この主日礼拝において、主イエスはあなたに「手を伸ばしなさい」と言って、あなたを

縛りから解放し、救いをいのちを与えるようとしておられます。手を伸ばそうではなりませんか。

2011/1/16 説教者 杉本守

 

 

 

 

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天のマナ

2011年01月16日 | 天のマナ

 「神による平安」 

 

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。」(ヨハネ14:27

 一昨日持たれたユースパッションの会議で、市内の一人の牧師からこんな話を聞きまし

た。それは昨年末に放送された番組で、「奇跡の生還~スクープチリ鉱山事件の真実」の

スペシャル・ドキュメントの内容でした。

 

 崩落のゆえに脱出の道を失い、完全に暗闇に閉ざされた時は、彼らは失望し死を覚悟し

 

たようでありましたが、一筋の光が差し込んだ時には希望をもったのでした。そしてお互い

 

を励ましあっていました。しかしその後、地上からの救援物資が届いた頃になると、それま

 

で比較的冷静に結束していた作業員たちに「欲」がでて、争いが始まったと証言したとい

 

うのです。テレビのチャンネル争い、電話の通話時間、食料の分配などをめぐって「欲」

 

が出てきたのでした。

 

その状況を変えたのは、クリスチャンが1日に2回礼拝をしお祈りしようと提案したことであり、

  

全員がそれを受け入れ、毎日礼拝がなされたことでした。神による平安でした。

 

2011/1/16

 

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講壇の花

2011年01月16日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年01月09日 | 説教要約

「いのちをもたらす神」 詩篇36篇1~12節

 この詩篇は、ダビデの洗練された信仰の詩であり、この詩篇の前半(1~4)には、悪しき者の性格が記され、後半(5~9)には、神への賛美が描かれています。この箇所から主のみ言葉に聴き入りましょう。

 

Ⅰ 悪しき者の姿

 罪は、神を畏れないことから始まります。サタンがエバを誘惑したとき、エバは神を畏れることを忘れていたのです。人の学識、修行、家柄、プライドは、人を誘惑や罪から守る決め手とはなりません。悪しき者は神を畏れないので、よこしまと欺きに立ち続けます。

 

Ⅱ 救いを与える神への賛美

 ここでダビデは神をほめたたえます。それは、どんな罪人でも神は救うことができるからです。自分の罪を認め、神を畏れ神の前に悔い改めるなら、罪を赦しいのちの泉をその者の内に与えてくださるのです。

 

 まさしくキリスト者とは、以前はやみであったが、今は主にあって光とされている者です。

 だから光の子らしく歩んでいこうではありませんか。

 

2011/1/9 説教者 杉本守

 

   

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