静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2009年10月25日 | 天のマナ
「信仰生活の土台―最大限の努力をー」 
 
 信仰生活の土台は、なんといっても「礼拝」です。クリスチャンの歩みの基軸は、「礼拝」です。土台をおろそかにしたり、基軸がブレたり曲がったりしては、その歩みは崩れ倒れていくしかありません。最大限の努力を払って、神を礼拝することを守るのがクリスチャンであります。それは義務ではなく、神に造られた人間としての本分(人間が人間としてあるべき姿)であり、主なる神によって救われた喜びと生かされている感謝から出るものであります。
 
 ですから、クリスチャンの考え方、あり方は、平日(月~土曜日)が中心ではなく、主日(日曜日)の「礼拝」を中心として平日を過ごすのです。特に土曜日の使い方です。土曜日は備え日です。主日にすべきことがあるならば、土曜日までにそれらを終わらせてしまう、「礼拝」の時間を聖別する(きよく別けささげ神のものとする)のです。主日の朝を大切にするために、土曜日の夜は、遅くならないように寝ることが欠かせないでしょう。私達クリスチャンは、世の人々と同じ様な歩みをしていてはいけません。神の聖なる民なのですから。 

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。」(Ⅰペテロ2:9)

2009・10・25
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講壇の花

2009年10月25日 | 教会案内
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主日礼拝説教要約

2009年10月18日 | 説教要約
「旧約を成就したイエス」 マタイによる福音書5章17~20節

 旧約と新約、律法と信仰を私達はどのように、捉えればよいのでしょうか。主イエスの山上の説教から、主の御心を知らせていただきましょう。

Ⅰ 律法に示された旧約
 旧約聖書を時には、「律法や預言者」といったり、「律法と預言と諸書(詩歌など)」といったり、ただ「律法」といってあらわしたりします。
 救い主イエス以前に、主なる神は、人類の代表としてアダムに対し、約束を結びましたが、アダムはその約束を破りました。また主なる神は、全民の代表としてイスラエルを神の民として選ばれ、契約を結びました。それがモーセの十戒を中心として律法です。神は、真に人間としてのあるべき姿、行動の基準を人間に示したのです。そして、民もそれに従い神の祝福を得るはずでありましたが、神の民イスラエルもその律法を守らず、旧約を破り続けたのです。

Ⅱ 律法を成就した主イエス 
 そこで主なる神は、律法を行えない人間を憐れみ、救い主イエスを人として遣わし、主イエスが人類の代表として、真のアダムとして、律法を完全に守り、神の言葉である律法を成就するようにしてくださったのです。それだけではありません。新しい契約(新約)を十字架による犠牲のゆえに結んでくださったのです。それは、行いによって義とされるのではなく、信仰によって、イエスを救い主と信じることによって、イエスの義を信じる私達に与えてくださり、罪をゆるし、神の子とし、永遠の命を与えてくださったのです。

 私達キリスト者は、もはや律法の下にあるのではなく、信じることによって与えられる恵みの下にあるのです。恵みの下に身を置くときに、神からいただく力によってみ言葉を行う者とされていくのです。

2009/10/18 説教者 杉本守
 
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天のマナ

2009年10月18日 | 天のマナ
「主に仕える姿に表される神の栄光」  「霊に燃え、主に仕え」(ロマ12:11) 
 日や土曜日に教会掃除に来てくださる方々、お花を活けに来てくださる方々、事務をしてくださる方々、主日に礼拝の奉仕をしてくださる方々、食事の準備から駐車場の奉仕にいたるまで、主に仕える方々の姿を通して、神の栄光が表されていることを見て、その麗しさに励まされています。また、グレジャムでの青年達の伝道の姿、信仰の先輩方の祈る姿や礼拝をささげている姿に、神の栄光が表されています。
 
 正直、とっかかりは重さを感じないわけではないのですが、行動を起こし奉仕をささげるうちに、喜びを見出し、その喜びを体験していくのです。そしてささげ終わる時に、主に仕えることができたことを感謝するのです。これは、主に仕え奉仕する者達がいただける恵みの特権であります。この恵みを逃さないようにしたいのです。金曜日のグレジャムも、準備を重ね祈り、もたれました。楽しい集いであると同時に、福音が語られ、主の恵みに満たされ、終わる時には、今回も持つことができてよかったとの充実感を持ったことでした。

2009・10・18
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講壇の花

2009年10月18日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年10月11日 | 説教要約
「主なる神に寄り頼む」詩篇11篇1~7節

 この詩篇は、「信頼の詩」といわれています。この箇所から主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 寄り頼む私たち
 この詩篇は、ダビデがサウル王に命をねらわれはじめ、ダビデが葛藤していた時であるという背景をもっています。友人達は、「山へ逃げろ」と言いますが、ダビデは、山に逃げるのではなく、主に寄り頼む、主の懐へ身を置くと信仰をあらわしています。
 寄り頼むとは、自分では負えない重荷を負っていないで、主に明け渡すことから始まるのです。

Ⅱ 寄り頼まれる主
 ダビデは誰に寄り頼むのでしょうか。それは、全知の目をもってすべてを調べ識別し、神の義をなされる神にです。主なる神は、乱暴を好む者を憎まれ、主により頼む者を救われる方だからです。

 私達も、負えない重荷を自分で負っていないで、主に寄り頼み明け渡して、歩もうではありませんか。

2009/10/11 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年10月11日 | 天のマナ
「静まって神を仰ぐ」  
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)

 ロサンゼルスにいた時、平日に近くのカトリック教会の礼拝堂を見せてもらった時でした。チャペルの椅子に座り、黙祷をささげている人、講壇の前にひざまずいて祈っている方、シーンとした中で、主なる神と交わる霊的な空気を身に感じ、会話を慎みました。
 
 聖徒達の共同体で神に礼拝をささげ祈ることも幸いですし、セル・グループで分かち合いの後、祈り合うことも麗しいです。それらと共に、時を用いて神の前に出る、一人チャペルで心を静めて祈ることは、主なる神との霊的な深い交わりが得られます。

 平日の朝でも昼でも夜でも、チャペルの椅子に座り、深呼吸をし、静寂な中、主なる神を仰ぎ、主イエスが横にいてくださる臨在を感じながら、黙祷を始めます。自らの置かれている状況、自らの意思と感情を含めた思いを主の前に注ぎ出した後、御言葉を読み、主なる神の御心を知ります。そして、その御言葉に立ち、信仰の決断の祈りをささげます。
 
キリスト者とされた私達は、成熟するために、このような霊的黙想の時間を通して、主なる神と深い交わりをすることが必要ではないでしょうか。

2009・10・11
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講壇の花

2009年10月11日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年10月04日 | 説教要約
「あなたがたの光を輝かせ」 マタイによる福音書5章13~16節

 グレースチャペルのビジョンは、「世の光、地の塩としての教会」です。
「世の光、地の塩」とはどういうことでしょうか。

Ⅰ 世の光、地の塩としてのキリスト者
 主イエスは弟子達に、「世の光、地の塩になりなさい」と言われたのではなく、すでに主イエスを救い主と信じ従う者は、「世の光、地の塩」であると言っています。
 「世の光」とは、世を照らす事であります。救われたキリスト者は、自らの内に「福音」「救い」「主イエスご自身」をいただいているので、輝き世を照らす事ができる者とされています。
 「地の塩」とは、世に対して純潔さを持ち、世の汚れに染まらず自らをきよく保ちながら、世を味付けし(生かし)、世の腐敗を防止する事であります。これも自らの力ではなく、内にいてくださるキリストによって、そうされているのです。

Ⅱ キリストの光を輝かす
 キリスト者は、そういう者とされていることを深く自覚しなければなりません。そして、内にいてくださるキリストから目をそらし、弱い自らを見て、弱気になって、光を隠したり、塩気をなくしたりしないようにすべきです。
 そうではなく、「光を輝かせる」こと、つまり宣教をすることです。「塩の働きをする」は、きよめられ続け、御霊の実を世の中にあって結ぶことであります。

 高慢になると言う意味ではなく、良い意味の自覚と誇りを持ち、世の光、地の塩としての歩みをしっかりとさせていただきましょう。神が崇められるために。

2009/10/4 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年10月04日 | 天のマナ
 「プレゼンテーション」
   
 コペンハーゲンで昨夜、2016年の夏季五輪がブラジル・リオデジェネイロに決まりました。東京を始め各国の招致への最後のプレゼンテーションは、どこも素晴らしいものでした。各国は総理大臣や大統領を始め、有名なオリンピック選手らが映像を駆使してアピールをいたしました。日本も東京を紹介し支持を得ようと、時間と財と労力をかけ、知恵を絞り、最高のアピールができましたが、残念ながら惜しくも選ばれませんでした。しかし、選ばれはしませんでしたが、日本のオリンピックへの情熱と環境への取り組みと強い意志が世界へ伝わったことは、「経済だけが取り得」と言われていた日本への世界の評価を変え、多くの実を結んだと考えるのです。

 では私達クリスチャンは、この社会へ何をアピールするのでしょうか。それは、主イエスの福音であり、主イエスを信じた者がいかに幸いな者とされているかであります。彼らが東京を精一杯紹介したように、私達もこの主イエスを、主イエスの福音を精一杯紹介したいと願うのです。私達は、世の光、地の塩とされているのですから。

2009/10/4 
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