静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2014年03月30日 | 天のマナ

「信頼による勝利」

 どんな時、何を理由にあなたは人を信頼するでしょうか? 例になるかどうかはわかりませんが、私は、娘の大学や専門学校の奨学金を、借りていますが、そのためには、親だけではなく親以外に第三者の保証人を必要とします。そこで兄や弟に頼み、保証人となってもらっています。彼らは、引き受けてくれています。身内ということもあるかと思いますが、私を信頼してくれているのです。「信頼」するとは、相手に今、目に見える財的や物的な保証がない時にこそ、発動される心の動きであります。では、何もないかというとそうでもありません。目に見える物はないかも知れませんが、相手の人格、相手の今までの言動の真実さや誠実さ、その歩みが信頼の根拠となるのであります。

 私たちが神を信頼するのもこれと近いと思います。今、私たちの願うことが、私たちの目の前にはまだ実現されていませんが、今までに溢れ続けている神の愛、誠実さ、神の真実さに目を向ける時、神は十分に信頼に値する方であるということは言うまでもなく、この神に信頼することこそが勝利を与えるのであります。

2014・3・30

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主日礼拝説教要約

2014年03月30日 | 説教要約

「罪人であるあなたを救う神」 ヨハネ第一の手紙4章7~11節

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙5章8節)

 本日は音楽伝道礼拝です。新来会者、求道者の方々向けに伝道メッセージをとりつぎます。

 「神を見せてみろ、見せたら信じる」と言われることが、たまあにあります。皆さんだったら、どうお答えするでしょうか。広島原爆投下の際、一つの出来事がありました。それは、ある妊婦さんがやけどを負いながらも、命がけで子供を出産し、そして亡くなられました。その子供は大きくなり、母親について言いました。それをまとめると、私は母親の顔も見たことも声を聞いたこともない。しかし、自分が存在するということは、自分には母親がいて命をかけて産んでくれたことであり、母親の存在とその愛を知り実感することができるということであります。

 この宇宙、この地球、大自然、そして私たち一人一人からミクロに至る世界まで、神のはかりしれない英知が溢れています。神を見なくても、神の手のわざを見るときに、神の偉大さ、神の愛を知るのではないでしょうか。

 「救い主が十字架に掛るなんておかしい」と言われることが、たまあにあります。皆さんだったら、どうお答するでしょうか。こんな話を聞いたことがあります。母親が嫌いな女の子がいました。なぜなら母親の顔にはやけどの跡があったからです。その娘は、母親と一緒に街を歩かず、母親のことを恥ずかしいとおもっていました。ある時、忘れ物を学校に届けに来てくれた母親に、ひどい言葉をかけてました。その夜、お父さんに呼ばれ、お母さんのやけどのことが語られました。お母さんのやけどは、隣の家からの延焼で二階に寝ていた娘を、命がけで助けた時のできたのものでした。自分を助けるためにやけどを負ったことを知らされ、彼女は自分が母親にしてきたことに胸が張り裂けそうなり、お母さんに泣きながら謝りました。母の愛を感じたのです。

 罪のない主イエスが十字架にかかられたのは、あなたの罪を負い、あなたの身代わりであります。娘さんが気が付いたように、あなたは気が付きますか?母親は娘を愛しゆるしていました。あなたもゆるされています。その愛とゆるしを受け取ってください。

2013・3・30 伝道礼拝 説教者 杉本守 

 

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講壇の花

2014年03月30日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年03月23日 | 説教要約

「契約に真実な神」 詩篇89篇46~52節

「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。」(テモテ第二の手紙2章13節)

 この詩篇は、かつて神がダビデに約束なさった契約に基づいて、イスラエルの捕囚からの回復を求める祈りであります。詩人は、祖国ユダ王国と聖なる都エルサレムの滅亡を思うと涙で目はつぶれたのです。それほど詩人の悲しみと痛みは激しいものであり、その中で唯一の希望は、神の言葉、神の約束(契約)でありました。

Ⅰ 偉大な神の契約

 契約をしてくださったのは神であり、契約の内容(4,20~21,26~28)は、第二サムエル7:4~17にあるもので、神はダビデに、ダビデの王座を世々限りなく立てると約束されました。主なる神は、契約を揺るがす方ではない(28,34,37)と詩人は告白しています。

Ⅱ 契約をなし遂げる偉大な噛みの真実

  見える所は、神が契約を破棄したのではないかと思えるような状況でした。しかし、これは、神が不真実になったのではなく、神の民が不真実であり幾度なる罪によって契約を違反し、自らに裁きを招いた結果でした。このような状況で詩人は、唯一の希望は、契約を守り通す真実なる神に頼るしかないとの叫びをしています。

 「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。」(テモテへの第二の手紙2章13節)

 「ダビデの王座を世々限りなく立てる」との契約は、ダビデの子孫であるイエスによって成就されました。その契約の恵みは、主を信じる者たちに今も豊かに注がれています。神の真実に支えられてこれからも歩んでいきましょう。

2013/3/23 説教者 杉本守

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天のマナ

2014年03月23日 | 天のマナ

 「地上を旅する信仰者」                     

 イエス・キリストを救い主として信じ救われたクリスチャンは、天の都(神の国)を目指す旅人であり、今は、ひとときのこの地上を旅しています。ヘブル書11章13~には、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(13)、「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」(16)とあります。    

 私たち人間は、時々、目に見えるものを無常に欲しがります。それはこの地上で得ることができるかも知れませんが、この地上の見えるものは一時的なものです。旅人である私たちはそんなに多くを持ったら旅が出来ず進めません。そのうち一時的な世のものに目が奪われ歩くのを止め、ついには根を下ろし、永遠なる天の都がかすみ、見えなくなるでしょう。だから、この地上で一時的に得ようとしないで、天の都で永遠に得るという楽しみをとっておきたいのです。「さすが私の子だ」と神に喜び続けていただけるためにも。

2014/3/23

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講壇の花

2014年03月23日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年03月16日 | 説教要約

「神は唯一の方」 使徒行伝12章20~25節

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記20章3節)

 非情で非道なヘロデ・アグリッパ王は、12弟子の一人で使徒ヤコブを殺しペテロも捕らえましたが、神の使いによってペテロは奇跡的に脱出しました。まだ使命が彼には残されていたのです。王は、彼を捜しますが見つけることができずに、カイザリヤへ行きそこで演説をしたのでした。

Ⅰ 神になろうとする人間の高慢な罪

 ヘロデの演説が終わると、彼にへつらう者達に扇動された民はヘロデに「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫ぶのでした。王はそのことをやめさせず、高慢の罪によって自らを神とするのです。使徒行伝10章26節からのペテロや14章13節からのパウロとは全く反対の彼がそこにいます。

Ⅱ 罪と罪人を裁かれる神

 神は、高慢であったヘロデ王に、権威権限を自分の思いを進める為に乱用する卑劣なヘロデ王に裁きをなされます。神の栄光を帰さない者は、神の義なる裁きを身に招くのです。彼は神の使いに打たれ、虫にかまれてその場で息が絶えたのです。

 私たちも十分に注意しなければなりません。アダム以来、人間は高慢の罪の中にあるのですから。神の前にへりくだり、被造物としての自覚をもって歩みましょう。

2014/3/16 説教者 杉本守

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天のマナ

2014年03月16日 | 天のマナ

「実を結ばせていただける喜び」        

 先週、静岡県公立高校の合格発表がありました。長い間、受験勉強をしてきた受験生の多くは、今までの人生の中でも経験したことのないほどの緊張の瞬間だったと思います。私たちも自分の受験生時代を思い出します。若干15歳の少年少女でありながら、努力を重ねプレッシャーの中でも果敢に挑戦していく姿に、私たちは実に多くを教えられます。そして、合格された子供達には、心からのお祝いの言葉を贈りたいのです。

 しかし、一方では実を結ぶまでに至らなかった子供達もいたことでしょう。どんなにかがっかりしたことかと思います。けれども、今回のことをもって、人生の失敗とは考えてはいけません。野球でたとえるなら、まだ二回の裏で2対0で負けている感じかもしれません。野球は九回までありますし、二回であきらめる人はまずいないのです。人生は時には願うようにいかないこともあります。アブラハム・リンカーンは、「あなたが転んでしまったことには関心がない。そこから立ち上がることに関心があるのだ」と言いました。必ず時が来ると神は実を結ばせて下さるのです。だから、立ち上がりましょう。(詩篇1:3)

2014/3/16

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講壇の花

2014年03月16日 | 生花
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天のマナ

2014年03月09日 | 天のマナ

 「み言葉に堅く立つ信仰」       

 先週の教団の年会にて、今年度天に召された三人の牧師の記念会がもたれました。大川アイ子牧師もその中の一人であり、私が先生の想い出を述べさせていただきました。私たちは、大川アイ子牧師から、どんな信仰の遺産をいただき、引き継いでいるのでしょうか。それは、み言葉に堅く立つ信仰であります。大川博道先生と結婚され静岡に来られた時もアイ子先生は祈ってみ言葉に堅く立って来られました。清水教会の開拓も、博道先生と祈り、「あなたがたが、足の裏で踏む地は、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう」(ヨシュア記1:3)のみ言葉によって、また静岡教会の会堂建築の際も、「もし信じるなら神の栄光をみるであろう」(ヨハネ11:40)とのみ言葉に堅く立たれたのでした。神は真実であり、み言葉を信じる者にみ言葉を体験させてくださる方です。私たちは、先生のみ言葉に対する信仰を見、教えられ、そして共に体験し、引き継いでいるのです。

2014/3/9

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