静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2009年09月27日 | 説教要約
「喜び、よろこべ」 マタイによる福音書5章10~12節

 神の前に敬虔に生きようとする時、私達クリスチャンは、迫害にあうことがあります。そういう時、私達はどのように歩んだらよいんでしょうか。

Ⅰ 幸いな者達
 「義」とは、「主イエス」であり、「主イエスが神であるという真理」であり「主イエスに従いその教えを堅持する」ということがであります。そのことのゆえに迫害を受ける時、「あなたがたは幸いである」と主イエスは言われています。

Ⅱ 幸いな者達の理由
 第一の理由は、そういう義に生きる者達を神が特別な御手で支えるからであります。たとえ、殉教することがあったてもステパノのように圧倒的な勝利によって輝くのです。
 第二の理由は、天国は彼らのものだからです。魂に平安があると共に、永遠の神の国に義の冠を頂いて入れる確実な祝福が待っているからです。

 だから、迫害にあう時、主イエスが最も近くにいて支え、主の豊かな祝福を体験するときであると信じて、喜び、踊ろうではありませんか。

2009/9/27 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年09月27日 | 天のマナ
「愛修会の恵み」   「あなたの家族と共に喜びなさい」(申命記14:26)

 日本の田舎ののどかな風景、空にゆっくり流れる雲を眺めながら、神の家族とのゆったりとした交わりの時を、先日の愛修会で持つことができ感謝しました。

 最初の恵みは、自然界を通して神の私達への愛を感じたことです。忙しくあわただしい日常から離れ、鳥のさえずり、虫の音、風に揺らぐ草、色とりどりの花に心も穏やかになり、神が私達を愛し、私達を喜ばせるために自然界をお造りになったことを確認しました。

 二つ目は、神の家族、兄弟姉妹との交わりを通して、神の私達への愛を感じたことです。共に賛美し、共にみ言葉に聴き、共に語り合い、共に祈り合いました。また、食事をしながら微笑み、温泉やプールや滝の散策やカブトムシの幼虫捕りで笑い合いました。神様は私達に素晴らしい神の家族を与えてくださっています。

 三つ目は、聖書の御言葉を通して、神の私達への愛を感じたことです。自然界を与えてくださった神は、私達に救い主イエスを与えてくださいました。私達一人一人の内に、私達の間に、主は今もいてくださるのです。

 この愛修会でも、主イエスを見せていただきました。来年にはさらに多くの兄弟姉妹が参加できるように願っています。

2009/9/27
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講壇の花

2009年09月27日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年09月20日 | 説教要約
「とこしえの王なる神」 詩篇10篇1~10節

 この世界を見ると、悪が栄え、正しさが追い込まれているようにさえ、思える時代です。この詩篇の記者も悪に苦しめられ神へ叫んでいます。この「助けるを求める祈り」から、主の御心を知らせていただきましょう。

Ⅰ 神を畏れない悪しき者
 ここに言われている「悪しき者」とは、神を認めず、神を侮り、「神は決してこの世界を見ていないし、悪をしても咎めない」と思い込み、自分を神とし高慢な者達のことを言っています。

Ⅱ 神を畏れる者の神への叫びと応え
 この詩篇の記者も、この悪しき者に苦しめられ、神に叫んでいます。「神よ、見られていないのですか?」「なぜ、黙っておられるのですか?」「立ち上がってくださり、手をあげてください」と。
 彼は叫びという祈りの中で、神を知ります。「神はじっと見ておられる」「神に身を委ねる者を助けられる」と。なぜならば、神こそとこしえの王だからです。

 とこしえの王なる神が、これからもじっと見つめておられるので、なおなお神を信じて行こう。悪しき者は滅び、正しき者が必ず栄えるるのですから。

説教者 杉本守
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天のマナ

2009年09月20日 | 天のマナ
 「人から神へではなく、自分から神へ」

 教会には様々な方から電話がかかってきます。

 先日も教会外の一人の男性の方から、詳しくは記せませんが、内容は親に対する文句の連呼でした。この方は、連呼した後に「どうすれば親がかわるか?」と続けます。私の返答は、話を十分聞いた後、ほとんどの場合、「多くの課題や問題の解決は、他人にあるのではなく、自分自身、自分の内にあること、相手が変わる事ではなく、自分が変わる事、もっと言えば神によってあなたが変えられる事が解決である」と答えます。

 スポーツ選手の話を聞くと、「ライバルは自分です。自分との戦いです」と語られます。相手を変えるのは困難、自分が変われば相手も変わるのですが、もっと難しいのは自分を変えることです。

 だから、静まって黙想し、自分の内の何がこの問題を引き起こすのか、罪なのか、過去の傷なのか、欲なのか、神によって自分の内を照らしていただき、自分の変わるべき所を示され、癒していただき、赦していただき、自分が先に変えられて行き、その恵みによって相手が変わっていく世界を体験させていただきたいのです。解決の鍵はここにあるのです。人を責めている間は解決はありません。自分を見つめ、そして神を見上げましょう。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(ルカ18:14)

2009/9/20
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講壇の花

2009年09月20日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年09月13日 | 説教要約
「神を見る心のきよい者」 マタイ5章4~9節

 主イエスの山上の説教より、幸いな人の特徴を見て行きましょう。

 「悲しんでいる人たちは、さいわいである」。この悲しみは一般的な悲しみではなく、神の前に自らの罪を認め悲しむことであります。そこから悔い改めと赦されたい祈りがでるからです。神はその者を赦し慰められます。

 「柔和な人たちは、さいわいである」。この柔和は、神の前に心を頑なにしない、自己主張をしないで、神が語られることに素直に聞き従うことです。神はその者を祝福し、この地上でも永遠の世界でも地を受け継ぐ者とします。

 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」。義に飢えかわくとは、神に義とされること、神の救いをうけることをひたすらに求めることです。神はこの者を救い、すべてに満たされます。

 「心の清き人たちは、さいわいである」。この清きは、罪が一つもない、罪を完全におかさない罪なき絶対的完全ではなく、動機が愛において純粋であるということです。私達の心が、神を求める気持ち、神を信じる気持ち、神を愛する気持ち、神に従う気持ちに嘘や偽りがなく、混じりけがないということです。神はこの者をさらにきよくし、神と出会わせてくださるのです。

 幸いな者とは、神との関係が命の関係にあり、神の命の光をいただいて輝くことであります。今週もそうあらせていただきましょう。

2009/9/13 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年09月13日 | 天のマナ
 「主イエスの御手の中で祈る」 

 先週の日曜日の夜、望月兄と共に、富士山に登りました。普段全く運動をしていない私が、無謀にも日本一高い山に挑戦をしたのです。五合目まで車で行き、夜中の11時30分に登りはじめました。最低六合目まで、目標は八合目、気持ちは頂上でした。ゆっくりしたペースで登り、4、5回は途中で休んで、スポーツドリンクを飲み、祈祷課題をあげて共に祈りました。六合目、七合目を過ぎ、七合目半、とうとう体力は限界に、気温も5度以下、3000メートルを越え空気も薄く、寝ないで夜登ったこともあり、朝4時前に八合目を目の前にして苦渋の決断、ここで断念しました。

 六合目まで下山し、日の出を見ました。左には富士山の頂上を眺め、前には駿河湾、右には富士市と富士宮市の夜景、後ろには南アルプス、だんだん明るくなる中、空と山々が表現できないほどの色彩を放ち、神が造られた自然、神をほめたたえている自然の美しさに、しばし言葉を失いました。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)。

その景色の中で、詩篇121篇が拝読され、共に主の御手の中で神に祈りました。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るのであろうか。わが助けは天と地を造られた主から来る」。

来年は、早朝から登り、頂上を目指します。

2009/9/13
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講壇の花

2009年09月13日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年09月06日 | 説教要約
「悩みのときの砦なる神」 詩篇9篇7~11節

 この詩篇は、ダビデが王となったあとも、隣国との連戦の中で歌った詩と言われています。連戦の中でダビデの詩の内容から、主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 砦なる神への感謝
 ダビデがそのような状況の中で、最初にしたことは、「感謝」でした。過ぎし日々に神の豊かな守りと導きを感謝しました。神は砦のごとくダビデを守られたのでした。ダビデは、その感謝を賛美としてあらわし、自らが受けた恵みを宣べ伝えたのでした。

Ⅱ 砦なる神への求め
 次にダビデがしたのは、砦なる神への求めでありました。「わたしをあわれんで下さい」とへりくだりました。神は、神を無視し自らを高ぶる隣国に正しい審判をしてくださり、真の神を神として信じへりくだる者に恵みをくださることを言い表しています。

 このような信仰者ダビデを、主なる神は今後も砦のように守られたのです。
 私達も、神の前に感謝をささげ、砦となってくださっている神に、主なる神の御心がなされるように求めていきましょう。

2009/9/6 説教者 杉本守
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