静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年08月29日 | 説教要約
「見つけるまでは」 ルカによる福音書15章1~7節

 本日は伝道礼拝です。有名な迷った一匹の羊の記事より、救いのメッセージを語らせていただきます。

Ⅰ 迷い子の人間
 神によって創造された人間は、神のもとから離れた時に、自らの存在が失われた(どうして存在しているのかわからない)者となってしまいました。その存在の喪失感を払拭しようと、進化論に逃げようとしたり、ヒューマニズムや夢を語ることによって右往左往しています。アダムとエバが神に背き神から時に自らの裸を隠そうと必死に葉で自らを隠したようにです。しかし、葉はしぼみます。それらでは存在の喪失感を払拭できないのです。
 
Ⅱ 見い出す主イエス
 そでは人間はどうしたら、存在の喪失感を払拭し、自らの存在における平安を取り戻せるのでしょうか。それは、人間を造られた神に戻るしかありません。人の心の空洞を埋めるのは、この世のどんなものをもってきても埋まらず、神によってしか埋められないのです。
 主イエスは、失われたあなたを捜し見い出し、今手を差し伸べています。神に立ち返ることができるようにと罪を赦し救う十字架の道をすでに用意されているのです。

 主イエスを救い主と信じ、罪を悔い改めたとき、本当の意味であなたはあなたの存在を取り戻せるのです。主イエスを信じましょう。 

2010/8/29 説教者 杉本守 
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天のマナ

2010年08月29日 | 天のマナ
 「国籍と住民登録」
「どうして洗礼を受ける必要があるのですか?」「洗礼の意味を教えてください。」などと時々聞かれることがあります。

 主イエス・キリストを自らの救い主として信じ告白した者は救われます。救いを受けた時、私達は見えない教会(普遍的な永遠の教会)に属します。見えない教会に属した私達は、見える教会(地上の地域にある教会)に属し、キリストの体の一部の器官として主に、キリストの体なる教会に仕えることが主の御心です。キリストの体なる教会に属する時に、器官としての私達は本当の意味で生かされるのです。

 洗礼を受けるときに、見える教会に属します。それはあたかも、日本で生まれた者が日本の国籍をもち、そして住民登録をして国民、市民となるように、主イエスを信じた時、天国の国籍を得たと共に、洗礼を受けてキリストの体なる教会に住民登録をするのです。
また、洗礼は、今までの自己中心な生き方、古い自分はが葬られ、神に従う生き方、新しい自分によみがえらされて歩むことを意味するのです。

「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)

2010/8/29
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講壇の花

2010年08月29日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年08月22日 | 説教要約
「主なる神を崇めよ」詩篇29篇1~11節

 この詩篇は、真の神の偉大さを詩っています。

Ⅰ 神の御声の力強さ
 イスラエルの雨期は、秋と春です。長い夏が終わりを告げる頃、西の空に雷鳴が鳴り轟きます。それは天地を切り裂くほどの稲光で、大地を揺り動かす雷鳴となります。神の御声はまさしくそのようなものであり、力と威厳がありのです。どんな不動のものであっても、神の御声が語られると動いてしまうほどです。

Ⅱ 神の御声の恵み深さ
 詩人は雷鳴に神の御威光だけではなく、恵みの到来も読み取っています。雨期は雷鳴と共に訪れるからです。地が潤います。そのように、神の御声は祝福の合図で、力と平安を与えるのです。だから、この詩人は、「主に栄光を帰せよ」と詩っているのです。

 私達も、魂が乾期の時こそ、主をお迎えしこのような主の御声を聞こうではありませんか。

2010/8/22 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年08月22日 | 天のマナ
「内にいてくださる主イエスによって」
 
 大島中高生キャンプで豊かな恵みをいただきました。キャンプファイヤーで一人の子が次のように恵みを分かち合ってくれました。「今まではイエス様を伝え、友達を教会に導くことに力んでできなかったけど、力むのではなくて、祈っていればイエス様が伝えてくれて教会に導いてくれることを教えられました」と。

 私達は、主イエスを信じた時、罪赦され義とせられ、神の子とせられ、永遠の命(新しいいのち)をいただいたのであります。永遠の命とは、主なる神イエスとの関係が回復し、主イエスが私達の内に住んでくださっていることです。私達の力や経験や知恵は、ほんの少しで限りがあります。その自分で物事を握りしめやろうとするから失敗するのです。そして自分を責めます。仮に成功しても自分でやったと高慢になります。

 私達の内には主イエスがいてくださるのです。私達は大いにこの方に期待いたしましょう。私達自身にでなく、私達の内にいて下さる主イエス様にです。私達にはできないことをまず認め、私達の内にいてくださる主イエスによって、できない者ができる者とされていく体験をさせていただきましょう。これが信仰の世界であり神の恵みの世界なのです。

「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2章20節)

2010・8・22
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講壇の花

2010年08月22日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年08月15日 | 説教要約
「信仰に応える神」 マタイによる福音書9章18~27節

 神の国の到来は、病いの世界にも死の世界においても、主イエスによって癒しとよみがえりのわざにおいて訪れています。

Ⅰ 信仰による求め
 ここにでてくる長血を患った女性は、他の福音書に記されているように、12年間も悩まされ、さまざまな医者にかかり薬を飲んでも、治るどころかひどくなり、財も使い果たしてしまっていました。この女性が、主イエスに求めたのです。その求め方は、正面切った求め方ではなく、知られないようにこっそりと後ろから、イエスの衣にさわるというものでした。しかし、ヤイロと同じく方法は違いますが、彼女も信仰がありました。

Ⅱ 主イエスによる応え
 信仰を持って主イエスに近づく者に、神の力は流れ出て、即座に彼女は癒やされたのです。主イエスは自らから力が出て行ったことに気づき、誰が触ったのかと問いました。多くの群集がイエスに迫り触れていたのですが、信仰のないところには御業はなされないのです。しかし、信仰をもってイエスに触れてこの女性は、自らに起こった癒やしを隠すことができずに、名乗りでたのです。
 主イエスは、彼女を名乗りださせ、自らに起こった癒やしの出来事を告白させることによって、癒やしだけではなく、救いの言葉をいただき救いの恵みにあずかったのです。
「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。

 信仰をもって主に触れる者に、主の力は流れていくのです。信仰をもって主に触れましょう。

2010・8・15 説教者 杉本守
 
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天のマナ

2010年08月15日 | 天のマナ
 「サマーバイブルキャンプの恵み」
 
 先週、箱根で持たれた教区小学生キャンプで、ひばりが丘教会の牧師先生が、三回のメッセージを語ってくださいました。最初のメッセージは、ヨハネによる福音書3章16節からでした。「愛するってどういうことだと思う?」「愛する人にどれくらい自分の大切なものをあげられる?」などの質問をされていました。そして、「神様は、みんなを愛してるんだって、どれくらいだろうね。それはね、神のひとり子(イエス)をあなたのためにこの世界に送ってくださり、あなたの身代わりに十字架にかけるほどなんだよ。」と続けられました。
 
 私達は、愛する者にどれくらい自分の大切なものをあげられるでしょうか。お金でいうなら10万円までなら100万円は・・?全財産・・・物でいうなら車?家?時間で言うなら10時間?一ヶ月?命でいうなら臓器?命そのもの? 少しリアルで具体的に言い過ぎましたか、けれども実際なものです。

 実に、実際に、現実に、神はあなたのために、神のひとり子である主イエスを与えられたのです。それほどの愛を私達はいただいているのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」(ヨハネ3:16)

2010・8・15
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講壇の花

2010年08月15日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年08月08日 | 説教要約
「祈りを聞かれる神」 詩篇28篇1~9節

 この詩篇は祈りの素晴らしさを詩っています。この詩篇には三種類の「手」がでてきます。一つは「私の手」(2)、二つ目は「悪を行う者の手」(4)、最後に「主の手」(5)です。こられらの「手」を追いながら御言葉を取り次ぎます。

Ⅰ 祈り求める者
 「私は手をあげる」とは祈りの姿であります。変わらない岩なる主に向かって祈っています。なぜ祈るのでしょうか。それは主が恵みの主であり、主の御手のわざを知っているからであります。悪者は主のなさること、主の御手のわざを知りません。

Ⅱ 祈りに応える神
 詩人は祈りの中で、主に向かって手を差し伸べて祈ります。主の御手が詩人に触れ、詩人は祈りが聞かれたことを確信するのです。「聞かれた」は完了形です。ですから7節にあるように、助けを得たので詩人の心は大いに喜び、主をほめたたえています。

 私達信仰者の手のわざは、何よりも祈りのわざでありたいのです。主は応えてくださる方です。

2010/8/8 説教者 杉本守
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