静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年04月17日 | 天のマナ
「共に十字架につけられ共に復活する」

 私達は、主イエスを救い主と信じた時、義認の恵みに与りました。罪が赦され、義とせられ、良心も明らかにされ、聖書のみ言葉にそった歩みをしたいと願います。願うことは良いことですが、なんとそれを自力で頑張って行おうとします。しかし、そのような自力での歩みをすればするほど、次のように陥っていきます。第一段階は、聖書のみ言葉にふさわしい歩みが十分にできていない牧師や信徒の兄姉を見て、躓き裁きます。第二段階は、自分も同じく聖書のみ言葉にふさわしい歩みができていないことに気付き、それなのに人を裁く愛のない自分をまざまざと見させられ自分に躓くのです。

 神の御心に適い、聖書のみ言葉にふさわしく歩む信仰生活は、到底、自力ではできません。そういう自力の我はキリストと共に十字架で死に、聖霊なる神によって神の御心に適う、聖書のみ言葉にいかさせていただく我がキリストと共に復活し生きることが大切です。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19,20)。これがきよめの体験です。
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天のマナ

2016年04月10日 | 天のマナ
 「神の要求であるきよめ」

 本日のメッセージは、「きよめ」が信仰者に必要であることが語られますが、その前に、「きよめ」は神の御心であり御旨であり、ご命令なのであります。次の聖句からも神は、私たちがきよくあることを求めておられます。神の命令:「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペテロ第一1:16)。神の御旨:「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」(テサロニケ第一4:3)など。

 しかしながら、人間である私達の知識、経験、努力では、絡み付き染みついた罪を取り除き、また罪から離れ、自己中心的な自我をきよくし、神の御心に適うことができません。ですから、神は次のように恵みによるきよめを与えて下さるのです。神の約束:「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなた方の霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められることのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、そのことをして下さるであろう。」」(テサロニケ第一5:13~14)
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天のマナ

2016年04月03日 | 天のマナ
 〈信仰の成熟「きよめ①」〉 「救いの目的」

 私達の日本ホーリネス教団が掲げる「きよめの教理」は、ジョン・ウエスレーが語り始めました。彼は「きよめ」を中心に、四重の福音(新生、聖化・神癒・再臨)の救いを捉えました。新生(義認:罪赦され義と認められ、永遠の命をいただき「霊において」生まれ変わる)を、聖化(きよめ)の始まりと捉え、神は人をきよく(罪から分離し神のものとなる)するために、救いを与えられたというのです。そして、飛躍的にきよめの深みに入れるために、信仰によるみ言葉の経験を与えるのです。それが聖化(きよめの経験)です。生まれたままの自己中心な我が、きよめられた神に従う我とされるのです。ヤコブがペニエルの経験できよめられ、モーセが燃える芝の前で靴を脱ぎきよめられ、ダビデが姦淫と殺人の罪で悔い改めた時にきよめられ、イザヤが神殿できよめられたようにです。神は、人間を救われるのは、きよめるためであります。そして、再臨の主イエスが来られる時に、私達は完全にきよい者となります。

 「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」(Ⅰテサロニケ4:3)
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